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KCON WALKER

IABSEシンポジウムと中央ヨーロッパにおける橋梁・構造物視察ツアー Vol.5

F・150918 今日はザグレブ(クロアチア)からリュブリャナ(スロベニア)経由ベニス・メストレへ。

 8:30シェラトンホテル出発、運転手・ロベルトさんの奥様が見送りにこられていた。奥様は日本人で、当然日本語も理解されているということは、ロベルトさんは我々の話していることはなんでも理解されているのではないか?写真F-2は朝のザグレブ市内、通勤ラッシュだ。

クロアチアースロベニア国境を無事通過、ハンガリーが国境を閉鎖している為、セルビア~クロアチア間の国境を17日、8ルートのうち7ルート閉鎖したとの情報あり。

 スロベニアに入ると丘陵地となり、民家と教会が多くなった。写真F-3に示す現場打ちアーチ橋は、動物が安全に移動出来るように造られた獣道である。

 

リュブリャナ(スロベニア)は太陽の日差しは強いが、陰に入ると上着を着用していて丁度良い、紅葉が始まりかけている。

ガイドはヤスナさん。写真F-5~8はリュブリャナ市内。

 スロベニアは小さな国、面積2万km2で200万人が住んでいて、リュブリャナには30万人住んでいる。

 当地は交通の要所で、リュブナリッツ川の高台に1480年に城が築造され、リュブリャナの中心にある。写真F-7

時計台は地震により壊れたが、1900年代に再建された。町はリブナリッツ川と城の間に発達した小さい町で歩いて廻れる。地元の方なのか、観光客なのか判らないが人が多い。小型の可愛い一人乗りがあった。写真F-8

 

さすが交通の要所と言われただけのことがあり、歴史的に重要な町でレストランが200件以上もある。6世紀に支配したオーストリア人やドイツのゲルマン民族が町を開発し、スロベニア人を支配していて、700年間に渡りオーストリア人が1等国民、スロベニア人は2等国民とされた。

ナポレオンがヨーロッパを制圧した1796年~1833年間はこの地を首府とした。スロベニアはナポレオンにより初めて解放され、写真F-9のオベリスクはナポレオンに感謝の気持ちで建造されたものである。そしてナポレオンが国民・国家の考え方を植え付けた。

 長く続いたオーストリアの支配がその後、ユーゴスラビアの支配となり、70年続く。リュブリャナはヨーロッパ文化の中心としての気持ちを持っている。

 

テキスト ボックス: 写真F-10 右から2軒目は音楽堂 写真F-10に示す音楽堂が1701年に建築され、ベートーヴェンやブラームスが演奏にやってきたところでもある。この頃の地球は写真F-11に示すようにマウンダー極小期の終わり頃ではあるが、寒かったらしい。

 

1511年に地震があり、1895年にもM6.1の大きな地震があった。その時に音楽堂が建て替えられ、最近、M3クラスのものがあったが被害はなかった。 

 リュブリャナは小さなウィーンとも呼ばれ、ナポレオンはウィーン会議をリュブリャナで行った。写真F-12はリュブリャナ市内。平日なのに人が多い。

 写真F-13は旅人の会合場所・シューズメーカー橋。13世紀に石造のアーチ橋として建造されたらしいが、1930年に今の橋になった。

写真F-14はトリプル橋(出会い橋)・上流に架かる橋。

 写真F-15・16は2010年築のブッチャース橋でオーストリア人・スロベニア人・金持ちの3住民を繋ぐ橋として建造された。

 

 

写真F-17・18はブッチャース橋の下流側にあるドラゴン橋で1848年築、1904年に改築されている。

 

 

ドラゴン橋は1800年代最初のRC橋との説明があった。橋の側面には1848~1888とあり築造年を示しているのか?フランスのモニエルがアーチ床版の特許を出したのが1867年だから、時代錯誤を感じる。

スロベニアは2007年にユーロ圏に入った。経済的な問題はない。そして、リュブリャナ~イタリア間は同じEU圏で、国境は無し。

 写真F-19はプシューレン詩人像で、写真F-20~22はリュブリャナ市内の様子。

1895年の地震後、ハプスブルグ家の王様がこの町を再建した。当時、パリでは下水が完備していたが、リュブリャナでは30%であった。

スロベニアからイタリアに入る。写真F-23・24の道路前方に水路橋や横断道路が見える。

ベニス・メストレ(イタリア)に夕方5時に到着。有志にてヴェニス観光、タクシーでヴェニスまで約30€、町中の海上回遊船は7.5€/人、観光客が大変多かった。 写真F-25~27はベネト州の都市ベネチアにある大運河(カナルグランデ)に架かるコスティトゥツィオーネ橋。全長:88m、2008年9月11日、トラス橋、