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KCON WALKER

スペイン・南フランスの旅 vol3

10、スペインの鉄道

スペインの鉄道は公営及び民営の様々な事業体によって運営されており、4種類の軌間が存在する。鉄道が引かれるとヨーロッパから侵略される可能性が高くなる。ヨーロッパで使用されている標準軌より20cm広いものを使っていた。幅が1mしかない狭軌もある。

 

2004年の鉄道総延長は14,781 kmであり、うち8,791kmが電化されている。

広軌 (1668 mm)      11,829 km (うち6,950 kmが直流3000V電化)
標準軌 (1435 mm)     998 km (全区間交流25000V電化)
メーターゲージ (1000 mm)1,926 km (うち815 kmが電化)
狭軌 (914 mm)      28 km (全区間電化)

 

近年のスペインの鉄道は多くの投資を受けており、その多くは欧州連合からのものである。1992年に標準軌の高速鉄道 (AVE) がマドリードとセビージャの間に建設された。2003年にはマドリードからリェイダまでの新線が開業し、2008年にはバルセロナまで延長された。同年、マドリードからバリャドリッドまで及びコルドバからマラガまでの路線が開業した。

 

 

 

 スペインの高速列車はAVE「鳥」という意味で初めてヨーロッパと同じ軌道幅を使用した。旧鉄道では国境で車体を持ち上げ、レール幅を変換していた。

 この幅の変換方法をスペインでは秘密とされていたが、日本の鉄道関係者は知っていたとか。

 

TalgoI・軌間可変車軸(ウィキペディア・フリー百科事典より)

国境駅に設けられているタルゴ車両用の軌間可変装置

1942年にTalgoIの試作車が製造されて以降、現在までに複数の形式が開発されているが、すべて車輪が一軸独立であるという特徴を持つ。左右の車輪をつなぐ車軸が存在せず、車輪の間に通路などを設けるための空間が確保できるため、車高が非常に低くなっている。

こうしたユニークな特徴を持つTalgoが開発された背景には、スペイン国鉄の抱える独特の問題がある。スペイン国鉄は広軌(1668mm)を採用しているため、曲線区間において内側と外側のレール長の差が、狭軌や標準軌のそれと比べて大きい。このため、左右の車輪が同じ速度で回転する通常の台車では、曲線通過時に車輪とレールの摩擦が大きくなり車輪が磨耗しやすい。またスペイン国鉄の路線には山岳路線が多く、必然的に周辺諸国と比較して曲線区間が多く曲線半径も小さい。

このように、タルゴの本来の開発目的は、左右独立車輪採用による車輪磨耗の軽減と、低重心化による曲線通過速度向上であり、「軌間可変」機構の装備を目的に開発されたわけではない。

 

11、スペインの風土・歴史他

スペインの大地は粘性土系で、降雨量も少ないので高木も少なく、砂漠も存在している。スペインのどこを発掘してもローマの遺跡が出てくる。

イベリア半島に50~80万年前にアフリカから人類が渡って来た。ネアンデルタール人は壁画を残していないと言われてきたがアルタシナの洞窟では1万8千年~3万年前に壁画が見つかっていたと言われている。

 スペイン人は太っている割には心臓病の人が少ないのはオリーブ油とワインを飲んでいるからではないかと言われている。

 農業人口は25%だったが、野菜等がモロッコ・スペイン経由でユーロ圏に入って来た。モロッコは人件費が安く、安価な農産物が収穫され、スペインの農業人口は5%にまで落ち込んだ。

 

12、スペインの発電

 風力による電力供給量は61%となっているが安定していない。その差を補充するのが火力発電である。余った電力は水を電気分解して水素発電に使用しているとか。スペインは石油が出ないのと雨が少ないので太陽光発電と太陽熱に力を入れている。また、太陽熱発電のような再生可能エネルギーの最大の制限は「貯蔵」だった。その問題を解決したのが「溶融塩太陽熱発電」で、熱を保存して夜間も発電を行うことができる。熱をリサイクルして砂漠化防止や砂漠地帯を耕地に変えることも目指しており、将来が楽しみな技術で、これにも力を入れている。

 

 

 

13、各都市の情報

①マドリード

 人口325万人、標高650mの年で、盛岡の北に位置する。街中は日陰を作るためにニセアカシヤやプラタナスが多く植生されている。

スペインでは7歳からサッカーの学校に入れる。8歳から全国大会に繋がる競技に出られるそうだ。

11世紀にアラブ人がマドリードに侵略してきた。スペイン内乱の後フランコ将軍の独裁政権が続いた。

現存する白い建物の王宮(オリエント宮)は、地上5階、地下3階で小さい部屋まで入れると2500室くらいある。

 

 現在、王宮は各国の大統領や首相がスペインを訪問された時等、公式の年中観閲行事などに使用されている。

  

セコビア橋が14世紀に作られ、16世紀になり改築された。そこに流れる川がマドリードに流れる唯一の川「マンサナレス川」で、「りんご園の川」と呼ばれている。

 セコビア橋上流側の橋脚は水流の抵抗を軽減するために三角形となっている。

 

 

 

これは鹿児島県・甲突川に架かっていた西田橋・高麗橋・玉江橋が復元されていて、これらにも応用されている。

 

 

M30環状高速道路は総延長99㎞で、そのうち56㎞がトンネルにより地下化され、うち17㎞部分は公園にしている。マドリードに唯一流れるマンサナレス川を渡るトレド橋(マドリード市内)は16世紀に作られ、1718~1732年に改築されている。

 M30環状線は500mおきにスピード監視カメラが付いていてスペインの人もここだけはおとなしく走っているとか。スペインの高速道路の最高速度は120km/hである。道路構造はシンプルで、所々にV字型側溝が設置されている。

 

  

トレド橋の右岸側にトレド門があり、周辺が公園になっていて美しい。橋の中央部に女神像があり、子供が井戸に落ちた時、水位が上昇し、子供が助かったということから作られた。上流側にはその夫の像があった。

トレド橋の取り付け部分はレンガと石材との組み合わせで作られており、コンクリートより少しでも軽くするためにこのような手法を取り入れたローマ時代の名残である。

 

ギリシャのコンクリートは石材を積み上げモルタルを流し込むプレパクトコンクリートであったが、ローマ時代になるとモルタルの中に石材を入れるという方法がとられるようになった。

マンサナレス川上流にアルガンスエラ歩道橋がある。歩道と自転車道が区別されている。斬新なデザインである。

マドリード郊外西北の町ラスロサスにある1997年築のサン・ホセ・アラーナ橋(斜張橋)、高さは45m、美しい姿をしている。さらに7㎞西北にあるレタマール橋はグアラダハラ側に架かる橋で18世紀に築造された。この付近はどこを掘ってもローマの遺跡が出てくる。

再びマドリードに戻りフランス橋(鉄道橋)を見学にゆく。

 

スペイン人は常にドン・キホーテとサンチョ・パンサが自分たちの心に生きていると思っている。スペイン人にとって男らしさとは自分の夢を追い続けることで、ドン・キホーテはダンディイズムの象徴であり、どんなことがあっても自分の夢を追い続ける男で、サンチョ・パンサは現実的な男である。

ドン・キホーテとサンチョ・パンサの像がスペイン広場の公園内にある。馬に乗ったドン・キホーテの左手に美しい女性が座っている。サンチョ・パンサの右手には田舎娘が座っている。

 

ドン・キホーテ

騎士道物語(当時のヨーロッパで流行していた)を読み過ぎて妄想に陥った郷士(下級貴族)の主人公が、自らを伝説の騎士と思い込み、痩せこけた馬・ロシナンテにまたがり、従者サンチョ・パンサを引きつれ遍歴の旅に出かける物語である。

1605年に出版された前編と、1615年に出版された後編がある。塔の頂部には五大陸の人が本を読んでいる様子を著者・セルバンテスは示している。

著者:ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ(1547929 – 1616423日)

 

 

近くにヘミングウェイがよく通った豚の丸焼きの店がある。

 

セゴビア豚の丸焼きの店高架橋は3連コンクリート現場打ちアーチ橋で、高さ35mである。この橋は自殺の名所となっており、現在は高覧に自殺防止用にアクリル板が取り付けられている。この橋でバンジージャンプで伸縮ロープの長さを間違えて地面に叩きつけられた人がいたらしい。

この橋は1930年代に老朽化のために取り壊され、1978年に架橋されたらしい。アーチ橋脚部分にひび割れが見られ、保護の為に表面被覆が施されている。

日本では1929(昭和4)年に安神宮の大鳥居が築造されている。

 

 

 

 

プラド美術館

フランスのルーブル美術館に習って築造された。

20世紀にスペインから出た3代巨匠はピカソ、ミロ、サルバドール・ダリで、数万点の名画が置かれている。

 マルガリータ王女が光遠近法により描かれている「官延の侍女」はベラスケスの作で、自分のアトリエを描いていて、ゴヤやピカソに影響を与えた。

官廷の侍女「官延の侍女」の内容はマルガリータ王女に出された盆には素焼きの壺が置かれている。その中には泥が入っていたのではないかと言われている。泥を舐めると病的になり、色白になる。

王女がこの泥を舐めて良いのかいけないのか母親に問いかけている様子が描かれている。王女は15歳でハプスブルグ家に嫁いだ。

16~18世紀には泥を舐める習慣があったらしい。

(つづく)