KCON WALKERケイコン社員のはんなりブログ
スペイン・南フランスの旅 vol2
7、闘牛の歴史と規則
闘牛の歴史で、その昔、フラウィウス闘技場(コロッセウム)で行われていたとされる公開処刑の名残りがあるのではとガイドさんに尋ねるとそのような話を聞いたことがあるとのことであった。しかし、定かではない。
3月から10月、マドリードでは闘牛のシーズンで、日曜日ごとに行われていた。小さな町では守護聖人のお祭りの日に開催されていて、現在の闘牛の型が生まれた場所はロンダである。
5歳牛になると体重は500kgになり、猛獣の一種である。日本人が考える牛ではなく、ライオンとか虎、クマと同じである。
フランシスコ・ロメオがロンダで馬から降りて徒歩で牛を交わす型・闘牛の基礎を作った。その孫のペドロ・ロメロが闘牛の全盛期を迎え、70歳を過ぎてまで牛を倒していた。その数、5000頭とも言われ、その時の模様をゴヤがエッチングで残している。
中世スペインでは現在とは違い、闘牛というと馬に乗った騎士と牛の対決というもので、貴族たちが楽しむスポーツのひとつだった。
18世紀に貴族たちへの闘牛禁止令が出されると、貴族たちの闘牛に対する興味は薄れていった。その代わり、庶民たちがこの闘牛に関心を持ち始め、各村々を巡りながら見せて回るという娯楽要素の強いものに変えていった。
やがて闘牛を職業としたプロの闘牛士たちが登場。そして馬から降りて直接牛と戦う猛者たちも現れ始めました。これを見た観客たちは大興奮。爆発的人気となる。
こうしていつしか人間対牛の直接対決というスタイルが一般化していった。
ロンダ出身の闘牛士、フランシスコ・ロメロ(1698~1793)も直接牛と闘った闘牛士の一人でした。
ムレータを華麗に翻し、牛の突進をひらりとかわすという闘牛を初めて行ったのは彼だった。
このスタイルは闘牛ファンの心をわしづかみにし、熱狂的に支持された。フランシスコの孫である、ペドロ・ロメロはこの闘牛の様式を継承し、ロンダ派闘牛を確立した。
ペドロは17歳の時から闘牛士の道を歩み始め、生涯5600回以上の闘牛を行いましたが、その間、一度も通院歴が無いという伝説の闘牛士です。現役引退後は闘牛学校の校長となり、細かなルールの設定や、立ち振る舞いの美しさを研究し、闘牛を芸術の域に押し上げた。闘牛場の中にある博物館では彼らの功績や歴史を目にすることができる。
一流の闘牛士が140人出て、その内1/3が闘牛場で牛に殺されている。
一回の闘牛で3人の闘牛士が出てくる。一人の闘牛士が2頭殺すので、1回の闘牛で6頭の牛が殺されるが、1頭の牛を殺す時間は20分と決められている。
この20分という時間は牛が闘牛場に入り、人間と赤い布(ヌレタ)を認識するまでの時間らしい。その時間以内に牛が人間を認識すると闘牛士は刺される。
闘牛には細かい約束事が多くある。初めて闘牛を見た人は、寄って掛かって牛を屠殺しているようにしか観かねない。
闘牛には進行係がいて、ハンカチを出して、反対側にいる音楽隊に知らせ、音楽隊は音で闘牛士たちに合図する。
牛が闘牛場に出されるとできるだけ牛を走らせる。これは牛の癖を見ると同時に運搬時に牛が足を捻挫していないか等、完璧な牛でないと闘牛には使われない。
最初の合図で槍師が出てくる。現在は馬に防具が付けられているが、ヘミングウェイが闘牛に夢中になっていた頃は防具が付けられず、一頭の牛で7頭の馬が殺されたということもあった。ヘミングウェイの短編小説の中に、「友人に馬の方を見てはいけない。牛だけを見なさい」と忠告する場面がある。
槍師は肩胛骨の間に5cm以上入らないように止めが入っている2本の槍を打つ。次の合図で銛(モリ)師が出てきて一人3本づつ肩甲骨の間に打ち込む。ここまで5分、残りが闘牛士の持ち時間で、徒歩で牛をかわす「パセ」という行動を見せる。色々な約束事があり、牛が横を通り過ぎるとき、姿勢正しく立ち、左足(きき足)を動かしてはならない。腰を真っ直ぐに伸ばしておかねばならない、そうでないと「パセ」とは言わない。如何にこれが難しいか、初心者を見るとよく判る。牛はかわされている間に人間を区別する。要する時間は20分くらいである。そして、区別する直前くらいに進行係がトドメの剣(長さ90cm)を出せと合図する。剣は心臓まで届き、一瞬にして牛は倒れる。
闘牛士は「パセ」という技を見せる人や芸術家肌の人がいて赤い布で牛を自由自在に操る闘牛士がいる。もう一つは度胸を見せる闘牛士がいて、牛の角に触ってみたり、牛の前で膝を付いたりヒヤヒヤさせる派手な闘牛士もいる。
最も危ない闘牛は、人間を確実に認識している状態で闘牛を続けることで、進行係が何回もやめさせる。これが一番危ない。
闘牛士は200人くらいいるが、一流の闘牛士は5~10人であり、芸術的なショウを見せる者と、度胸を見せる者がいる。布で体を隠しているが牛に見破られると確実に殺される。
1960年代にコルドバから今までと全く異なったスタイルの闘牛をするエル・コルドベスが出た。1940年代に生まれ、貧しい家庭に育ち、栄光を得るには闘牛士になる道が一番の近道と言われていた。彼の自叙伝には「牛の角よりも生活の飢餓の方が怖かった」と言っている。
4歳牛の体重は400kgで、まだ子供なので2~3回のミスは許してくれるが、5歳以上、体重が500kgの大人の牛になると一回のミスも見逃してはくれない。 中には「ミウラの牛」という牛がいて、体重1 t、角の長さ1mというものがいる。頭が良くて20分以内で人間を区別し、一流の闘牛士の多くが倒されている。
エル・コルドベスは最初の闘牛でお姉さんに「家を買ってあげよう、さもなくば喪服を」と言っている。
良い闘牛を見せると牛の耳を与えられ、より良いものは両耳を、さらに良くなると牛の尾っぽが与えられる。「ホセ・トマス」は尾っぽを60本以上得ている。
闘牛場には礼拝堂がついていて、出場前にはお祈りを行うようになっている。奥さんは恐ろしくて闘牛場へはゆかず、家で無事を祈っている。
ロンダの闘牛場に出られる闘牛士は一流と言われている。「ホセ・トマス」は11歳までサッカー選手であった。父親が大の闘牛ファンで闘牛士になろうと決意した。すると父親は日本の「武士道」を教えた。
ホセ・トマスが出場する闘牛の入場券は6000€(100万円)まで値上がりしたと言われている。
≪参考≫武士道精神
新渡戸稲造博士は世情不安な明治32(1899)年に「武士道」を38歳で、それも流暢な英語で執筆した。明治20年、彼がドイツ留学時に「日本に宗教教育がないのは到底理解できない、そんなことで日本人はどのようにして子孫に道徳を伝えてゆけるのか」と問われた。宗教によってあらましの知識を得る、これが世界の常識と言われた中で、日本人の心に脈々と流れる「武士道」を執筆した。
勇気と決断は武士道の根底に流れるもので、「武士道」の一節を紹介すると「小児は軍物語を繰り返し聞かされ、もし、何かの痛みによって泣けば、母は子を叱って『これしきの痛みで泣くとは何という臆病者です!戦場で貴方の手が切り取られた時はどうしますか、切腹を命ぜられた時はどうしますか』と励ました。
また、武士の子は艱難の険しい谷に投じられ、時としては食物を与えず、もしくは寒気にさらすことも忍耐を学ぶ試練であると考えられた。そして、斬首の刑が行われた時は見に行かされ、夜遅く単身でその場を訪れ、さらし首に印をつけて帰ることを命ぜられた」とある。
このように忍耐力や度胸を身に付ける教育を受けたのは常に平常心を保つことが出来る心を持つ。驚愕に襲われた状態でも、何事もなかったように冷静に判断、決断する勇気を得る為のものであった。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」、日本人の心は武士道精神が基軸になっていると思うが、今、世の中全体の規律がぬるま湯に漬かっているような気がしてならない。
8、各地の祭り
スペインでは小さな街にも守護聖人がおられ、365日、どこかでお祭りが開かれているくにである。
スペインの3大祭りのひとつ、3月19日に地中海沿岸のマレーシアという地においてサン・ホセという火祭が行われる。この地は大工さんや家具屋さんが多く、冬の間に溜まった木屑を春先に燃やしたのが起源である。
今では大きな人形を作り、花火と共に燃やしている。それが終わると4月にはセビージャで春の祭りが行われ、民族衣裳を身につけた女性が1週間踊り続ける女性のための祭りで、昔、家畜の市がセビージャで開かれた時、家畜の売買が終った人達がワインを飲みながら民族舞踊を踊りだしたのが起源である。
7月にはパンプローナで牛追いの祭りがある。1週間、毎朝8時にその日の闘牛で使用される牛6頭と去勢牛6頭を800m走らせる。人間も3000~3500人が一緒に走る。今年、死者は出なかったが50人位けが人が出た。
スペインにはフィラメンコと闘牛というイメージがあるが、全国民の70~80%は闘牛に反対していて、バルセロナでは反対者多数により闘牛は行われていない。
闘牛に使用される牛は家畜化された牛ではなく、イベリア半島にしかいない獰猛な牛で、群れをなしているときは大人しいが、単独になると動くものに向かってくる習性があり、大変危険である。
3分間で6頭の牛が800mを走り抜ければ良いが、5分かかったとすると、はぐれた1頭に必ず角で突かれ、死者やけが人が出ている。そしてけが人が出なかったらニュースになるという。
中南米で行われている闘牛に使用されている牛はスペインから持ち込まれた牛である。
ドニョールという8000人くらいの小さな村に40000人もの人がトマトをぶつけ合う祭りがある。このトマトは食べられないものや腐った物である。日本人も500人程度参加しているようだ。今年は140tのトマトが使用されている。
1947年、お祭りの最中に行商人達が喧嘩を始めた。そして、自分たちの持っていた野菜を投げ出した。これが始まりで、起源はそんなに古い話ではなさそうだ。
140 tの食物を無駄にすると抗議されるが、この品種は食料にはならない種類らしい。価格も食用用の1/3~1/4でトマト代は3000€位だが、その経済効果は100倍ともいわれている。
サマカワラという小さな村では、2月1日は女性が男性に命令できる日であり、警察署長他官職も女性が行う。女性たちが中世の衣装を着て行進し街を練り歩く。スペインは男尊女卑の国ではあるが、この日だけは女性が公に男性に命令できる日で、その他の日は非公式に命令できる日になっているとか。
9、スペイン人の気質他
車のバンパーはぶつける為のもので、バンパーをぶつけたくらいで文句を言うスペイン人はいないとか。ドイツ人は車を大切にするので、休暇でスペインに来てバンパーをぶつけられると真っ青になっている。
イタリア、フランス、スペインではバンパーはぶつけるためにあるという認識で、ぶつかると運転手が降りて来て、少々の傷であれば握手しておしまいらしい。
スペイン人は3人いたら4つの意見があり、100人いたら150の意見があると言われているくらい個人主義の国で、「時間は人間が合わせるものではない」という考えだが、たいへん落ち込む人種でもあると言われている。
(つづく)