KCON WALKERケイコン社員のはんなりブログ
スペイン・南フランスの旅 vol1
スペイン・南フランスの旅 2014/09/02~13
1、はじめに
2014/09/02~09/13《IABSE・マドリードシンポジウム出席とスペイン・南フランスの橋梁・世界遺産視察ツアー》と題し、マドレード~トレド~セビージャ~マラガ~ミハス~ロンダ~コルドバ~グラナダ~バルセロナ~ミヨー~モンペリエ~ニーム~リヨン等各都市の視察に参加する機会を得た。
本来は橋梁と土木構造物の視察であるが、「全ての道はローマに通ず」が如くスペイン・南フランスにおいて多くの土木・建築物を視察するチャンスを得た。各々の説明内容は主に各訪問地のガイドさんの説明を尊重し、補足としてインターネットの解説文章(アンダーライン部分)や現地築造物の説明ガイドブック等を参考にした。
到着翌日、マドリードのガイドさんからスペインに関する多くの話、例えば、日本との関係、闘牛について、また、スペインの3大祭りなどお聞きし、記述した。尚、私の聞き違いや勘違いによる記載があるかもしれないがご容赦願いたい。疑問に感じられた方は申し訳ございませんがご自身でお調べください。
旅行中の注意事項として、まず、最初に言われたのが置き引きやスリに要注意で、ニセ警官を装って近づいて来る者やソフトクリームを背中につけて拭いてあげるといい、そのスキに仲間が荷物を持って逃げるといった事件が発生している。子供や女性が近づいてくれば要注意、自分の身を自分で守らないのは日本人くらいだ。
時差は7時間、日本時間昼12:00はスペインでは朝5:00、スペインの昼12:00は日本では19:00である。
3、視察場所
4、行程
9月のスペインの日の出は7時、日没は7時45分くらいで、昼寝タイムは14時から17時である。デパートは10時から22時まで開いている。
マドリードの降雨量は600mm/年くらいで、砂漠もある。
土曜・日曜日はキリスト教の休息日で店舗は休みとなっていたが、最近は営業している店が多い。
5、日本の交易・種子島の鉄砲
1543年、中国の船に乗ったポルトガル人が種子島に鉄砲を伝えた。その鉄砲
は日本人の手によりまたたく間に増産され、ヨーロッパに存在する鉄砲30万丁に匹敵するくらいの勢いで増産された。その鉄砲の特徴は筒にねじ切りがされていることであった。
6、スペインと日本人
スペインには日本人の子孫が住んでいる。1549年フランシスコザビエルが日本にやってきて薩摩から山口に行き、日本の青年と共に帰国したと言われている。その後、少年使節団がポルトガルのリスボンに上陸をして、彼らもマドリードを通ってローマにゆく。8年掛かって日本に戻る。
その後、支倉常長(はせくらつねなが)が1613年10月28日にサン・ファン・バウティスタ号で日本を出航し、スペインに翌年10月2日に到着した。当時の南蛮貿易はフィリピン経由の航海であった。
太平洋横断に使用した船・サン・ファン・バウティスタ号は「洗礼者・聖ヨハネ」の意、元は「伊達丸」と呼ばれていた。仙台領内に滞在していたスペイン人提督セバスティアン・ビスカイノの指導により建造した、約500トン級で最初の日本製西洋型軍船である。
アカプルコに着いたサン・ファン・バウティスタ号は、そのまま日本に帰り、乗員は別の船でスペインを目指した。
マゼランの世界一周やコロンブスの新大陸発見に使用された船は100トンくらいであったので、相当大きな船であった。その船に150名以上が乗り、太平洋を渡り、さらにメキシコから大西洋を渡って1年がかりでスペインにたどり着いた。到達した時は20数名程度であった。彼らはセビージャ近くのコリア・デル・リオに到着し、トレドやマドリードを経由してローマに入った。
彼らが滞在したサンフランシスコエルフランデ教会は改装されているが現在もその地に残っている。さらに彼らがフェリッペ3世に謁見した場所は改装されているが今も存在する。
支倉常長(はせくらつねなが・伊達藩)が洗礼を行ったエスカレサ修道院の内装はその当時とほとんど変わっていないと言われている。
日本を出航したのが1613年、昨年が丁度400年に当たり催しが開催された。伊達藩は仙台なので、東北大震災の関係で何もされなかったが、マドリードのプラド美術館他では南蛮特別展や浮世絵展などが開催された。
コリア・デル・リオの教会に20名の修道女と日本から来た信者が同じ賛美歌(メロディが同じ)を日本語とスペイン語で歌っていた。
ウィキペディア・フリー百科事典より
コリア・デル・リオ(Coria del Río)は、スペイン、アンダルシア州、セビージャ県の自治体。セビージャの南方約15kmにあり、グアダルキビール川に面する。
1614年、仙台藩の伊達政宗の家臣支倉常長率いる慶長遣欧使節が滞在したことで知られる。コリア・デル・リオにはJapón(ハポン、日本)の姓を持つ人が約700人おり、使節団の一員として来訪したまま現地に留まったキリスト教徒日本人、使節の現地人水夫、及びその支援者の子孫達と考えられている。一行は、スペインを離れる前に、スペイン王から伊達政宗宛ての親書を待ち、この地に約9か月間滞在した。
1992年、宮城県はコリア・デル・リオに佐藤忠良作の支倉常長像を寄贈した。この像はグアダルキビール川に沿った公園に立てられている。2003年には、ハポン姓の人が集まる「日本週間」が開催された。
2013年6月、徳仁皇太子がコリア・デル・リオを訪問し、植樹式を行なった。
天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)は1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られる様になり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれる。
使節の少年たちはセミナリヨで学ぶ生徒の中から選ばれた。使節4名の正確な生年月日は不明だが、派遣当時の年齢は13~14歳であった。中浦ジュリアンが最年長、原マルティノが最年少と言われる。
1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された、天正遣欧使節の肖像画。タイトルには「日本島からのニュース」と書かれている。京都大学図書館蔵。
右上・伊藤、右下・千々石、左上・中浦、左下・原。中央・メスキータ神父
今井翼(男優)が王宮の近くの王立劇場で支倉常長の役を演じ、その時日本の皇太子が来られた。支倉常長が日本を出たのが1638年10月28日で、1年後の10月2日に到着しているので、その日には今年も催し物が開催されると思われる。
コリア・デル・リオという小さま村だが今でもハポン(スペイン語で日本)と言う苗字を名乗る人が840数名住んでいる。その村に皇太子が昨年来られ桜の木を植えられた。
コリア・デル・リオという村は大変親日的なところで、今でも支倉常長エスパニア教会があり、その15代目の会長さんがおられる。
スペインでは父親方と母親方の2つ以上の苗字を持っている。その苗字が両親ともハポン・ハポンを受け継いでいる人が9名おられる。父親方のハポン性を持つ人が320数名、母親方が300人近くいる。その他セビージャなどにも200人程度おられ、合計820数名おられる。支倉常長一行がこちらにこられ、日本に帰らなかった侍が5名という説と6名という説があり、その子孫である。
明治になって岩倉具視がヨーロッパ(イタリア)に来た際にスペインまでは来なかったが、日本の武士がスペインに住んでいるということを知らされた。そして、10月には伊達藩なので宮城県の方々がこられ、琴のコンサートや歌や踊りの会を開いたりされているとのことである。
当時、日本ではキリシタン弾圧が始まっていたので日本に帰らなかったのかもしれない。
コリア・デル・リオという村に住み着く訳だが、どうしてこの村を選んだのか、食べ物、稲作の関係か、イベリア半島で稲作ができるのは3箇所しかなく、南の方にアルグヘラという大きな沼があり、アラブの時代から稲作が行われていた。そして、バルセロナの近くやセビージャの近くの3箇所であるが、彼らが住み着いた頃はまだ稲作は行われていなかったようで、自然環境が仙台に似ていたのではないかと言われている。
彼らが上陸したところに支倉常長の銅像が立っている。日本語とスペイン語で歴史の説明がされている。
5名もしくは6名は最後まで日本に帰るつもりであった。当時、日本に一番近い場所がコリア・デル・リオであり、そこで船を待っていた。今でも彼らが滞在した修道院が残っている。
「伊達」という言葉に「人目を引く」とか、「派手に振舞う」、「あか抜けている」「伊達男」「伊達メガネ」等言われるように伊達藩の侍は田舎侍ではなく、ダンディであり大変好かれたようだ。
数年前にミススペインがその村から出た。彼女はおじいさんの代までハポン性があった。黒髪、黒い瞳で、スペイン人に言わせると東洋人的な面影があるといっている、そして、赤ちゃんには蒙古斑が出てくるそうだ。
支倉常長は日本に帰るが、お墓が3つあり、30数歳で亡くなったという説や60数歳まで生きたという説がある。当時はキリシタン弾圧が始まっているので伊達政宗が病死したかのようにさせたのではないかと言われている。
彼らを連れてきたルイスセトラというセビージャの司教がそのあと日本に出向き、長崎の大村で火炙りの刑で殉教している。
支倉常長を研究しているイタリア人で、日本に住んでいる80数歳の人が今年マドリードに来た。支倉常長が洗礼を行った教会が今もあり、ミサを行われている。 彼らがここに来た証拠は19世紀にその教会が火事で焼けてしまったが、マジェーカスという下町の教会にそれらの資料が残っている。
(つづく)