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KCON WALKER

インド・バングラディシュ・タイ・ミャンマーの橋梁・社会基盤構造物視察団(バングラディシュ編)

 インド・バングラディシュ・タイ・ミャンマーの橋梁・社会基盤構造物視察団(バングラディシュ編)

 

9月23日 バングラディッシュへ

早朝3時起床、4時15分ホテル出発5時頃空港着、入口にてパスポート検査→出国用紙に記入→チェックイン・荷物を預ける→出国手続き→出国時手荷物検査・ベルト・靴を別に、厳重な検査→待合室から駐機場の手前でパスポート・手荷物検査→飛行機に乗る前にもパスポート・手荷物検査→搭乗、大変検査が厳しい。7時05分離陸、バングラディッシュ・ダッカへ

 離陸後入国書類記入しているとスナック菓子が配られ、食べ終わるや否や35分で着陸。手荷物は一人づつ係員が荷札をチェック。やっと飛行場から離れる。

 バングラディッシュは1971年、東パキスタンから独立した。言葉はインドと同じだが、宗教が異なり、インドはヒンドゥー教徒が78%でバングラディッシュはイスラム教徒が多い。

市内ではクラクションの音がしているが、コルカタほどでもないような気がした。しかし、ピーピーとうるさい。

バングラディッシュの国旗(写真-12)は日本の「日の丸」と似ている。また、パラオの国旗も図形はほぼ同じで、色が異なる。バングラディッシュの国旗の緑は森林が多いことを象徴し、太陽は独立した翌朝の素晴らしい輝きを現している。(ガイドさんの説明より)

《参考》パラオの国旗(写真-13)の意味:黄金色の円は月を表し、パラオ人の機が熟し独立国となったことを表す。また月はパラオの人々にとって収穫や自然の循環、年中行事に重要な役割を果たしている。明るい青はパラオが広大な太平洋に位置することとともに、過去の異国の統治による影からの脱出を表す。

  

バングラディッシュのガイドはアクタルさん

車は左側通行である。

バングラディッシュの面積:14万4千km2、人口:1億5千万人

通貨レート 1$≒78タカ

日本時間昼の12:00はバングラディッシュ時間朝の9:00

メグナ川改善事業 (インターネットやガイドさんの説明による)

バングラディッシュはガンジス河などの河口デルタ地帯にあり、湿地帯が多い (図-3・4、写真-14) 。南部は小型手漕ぎ船が移動手段である。

標高3~5m程度の低地を「オハール」と呼び、雨季には広範囲に湛水する。住民の住居地はその中でも微高地に限定される。洪水は6~10月の雨季に始まり、
この湛水面が上昇する。雨季後期には乾期時より水面は3~5m上昇し、一面が水没する。洪水により運ばれてくる肥沃(ひよく)な土壌により乾期の稲作が行われている。

その雨季前の4~5月には上流の豪雨により水位が急上昇し、この被害を最小限に抑えるべく、高さ2~3m程度の潜水堤防の建設が急がれている。

11月から3月には農業活動・稲作が中心で、4~5月には収穫活動、洪水期には農作業が出来ない為、漁業や出稼ぎにゆく、また、避難民となってインドにゆく人も多い。島のような微高地に家畜も含め、高人口密度となり、波浪による被害も深刻で、移動はボートしかない。

 

 

ホテル着後、下表のメグナ川に架かるメグナ橋、グムティ橋(13径間。センターピン方式)を見学にゆく。表-1参照

 

ダッカ~チッタゴン間国道改修の新設事業(有償)

カチプール橋、メグナ橋、グムティ橋が建設され、将来車線増幅のために新橋の架橋が計画されている。

 

Sonargaonの街並

 

15~16世紀に栄えた街・ソナルガオンを見学にゆく(写真-21・22)。ここは英国人が紡織機にて布地を生産したところで、裕福な人たちの住居跡が伺える。しかし、反英感情が高まり、ヒンズー教徒に追われた。

ソナルガオンは、ダッカの南東32kmのところにあるバングラデシュの旧都。デーヴァ朝が統治していた13世紀から、のちにムガール帝国下で首都がダッカに変遷されるまでの間、東ベンガル最大の都市で繁栄を続けた。ちなみにソナルガオンとは、ベンガル語で「金の都」という意味。
 以下、当時の街並みと博物館(写真-23・24・25)を示し、写真-26は見学に来ていた女子学生である。視察団の一員である若いHさんは女子学生にモテモテであった。また、写真-27・28は展示品である。

 

 

博物館の中には、楽器や工芸品などが展示してあるほか、ヒンドゥー教の神ガネーシャの彫刻(写真-28)があったり、人の生活様式を表したイラストが飾ってあったり、機織りなど生活の一部が人形を使って再現されていたり、様々な少数民族の人たちのことが分かるパネルが展示してあったりと、見応え充分。
 

 帰路、JICA・バングラディッシュ(写真-29・30)訪問、意見交換の場となった。

 バングラディッシュの人口構成はピラミッド型で、40~50年は労働人口が豊富とのこと。

 

ホテルにて夕食

 電力不足により頻繁に停電が発生する。自家発電装置の可動によりすぐに明るくなるが、自家発電設備のないところでは、1時間くらいは闇の中だそうだ。

 

9月24日 5時起床、道中混雑するとのことで、6時ホテル出発

 ジャムナ橋見学

 道中、ガイド・アクタルさんの話では、建築許可を3階でもらっておいて7~8階建てとし、自重により倒壊したケースもあるとのこと。

 現場は足場らしきものもなく、あっても竹で組んだ簡単なものであった。(写真-31)

 道路は大変混雑しており走行する車両は交通ルールがない状態である。左側通行なのか、右側通行なのかわからない、早い者勝ちといった様子で、俗にいう突っ込み合いの状態である。

 通行する車両は接触し合って走行するため写真-32・33のように傷だらけになっている。ほとんどが輸入中古車だ。クラクションを鳴らすタイミングは自分の車が割り込むぞ、といった時に鳴らしているような気がした。しかし、ピーピーと鳴らしている割には口論になっている場面は見られなかった。

 写真にあるように特別に鋼製のバンパーが取り付けられている車がある(写真-34~36)。その昔、フランスで駐車している前後の車を押しのけて、自分の車が出て行けるスペースを作るという光景を見たことを思い出した。

 

 

ジャムナ橋 4.8km 建設費は1000億ドル。世界銀行とアジア開発銀行から融資を受けたとのこと。

 フェリー待ち時間を入れて5~6時間掛っていたものが、ジャムナ橋開通により15分くらいで渡れるようになった。

ジャムナ橋管理事務所にて説明を受け、建設当時の資料の置いてある敷地に移動する。実物大の資料が断面ごとに静置されていた(写真37~40)。

 

ジャムナ川に架かるジャムナ多目的橋(写真-41)(インターネット並びにガイドさんの説明より)

 ジャムナ川はバングラディッシュの中央を流れる三河川の一つで、国土を東西に分断する形で流れている。フェリーが運航されていたが天候並びに季節による水位差によりフェリー施設の拡充がむつかしく、時によってはフェリーの待ち時間が36時間となっていることもあった。

 ジャムナ川西岸で栽培された農作物を東側消費地へ運搬するのに支障をきたした。さらに西部地域は電気・ガス・通信のインフラ整備がなく、取り残される結果となりつつあり、ジャムナ川に橋が架かるのは国民の悲願である。本橋梁建設はバングラディッシュ政府にとって高い優先順位の事業であった。

ジャムナ橋の基礎地盤は軟弱な堆積層で基礎杭はφ3.5m鋼管杭長さ約70mで、試験打設された杭の頭部が水面上に現れていた(写真-42)。

 写真-43は鉄道が通過している様子を示す。通常鉄道は橋梁中央部に通行帯を設けるのが一般的ではあるが、この橋梁では端部に設置され、通信施設は車道・車道・鉄道の横に設置された。

橋梁上における車道幅は走行車線と追越車線で異なり、写真-44に示すように走行車線の方が広かった。また、鉄道のレールは幅員の異なる列車が通行可能なように、橋梁上は4本、陸上部は3本施設されていた。写真-45はレールが3本敷設されているところを示す。

ジャムナ橋は7径間連続ゲルバーヒンジ構造である。

通勤手段にはバスやトラックが使用されていて、定員はなさそうだ。バスの天井に登るのはいけないらしいが、多くの人が乗っている(写真-46)。ジャム橋上を走る鉄道の屋根にも通常は多くの人が乗っているらしく、通常乗ってはいけない場所なので、料金は要らないらしい(写真-47)。

 

飛行機から水面に煙突が数多く乱立している光景を見た。何のためかな?その疑問が解けた。平地にレンガ焼き用の煙突を築造し、周囲の土壌を掘削してレンガを焼く。広範囲に掘削し、その部分が水没してあたかも水中に煙突が立っているかのように見えた(写真-48~50)。

 レンガは多くの場所で焼かれ、建築の壁に使用されていた。

 煉瓦(れんが)は、粘土や頁岩、泥を型に入れ、窯で焼き固めて、あるいは圧縮して作られる建築材料。通常は赤茶色で直方体をしている。焼成レンガは、土の中に入っている鉄分の影響により赤褐色となる。耐火レンガは炉材にも使われる。

 

 

大きな縫製工場があり、多くの女工さんが通勤していた。写真のように多くがカラフルな布をまとい、頭を布で覆っている人が多かった(写真-52・53)。

 

(次回へつづく)