お使いのブラウザはサポート対象外です。推奨のブラウザをご利用ください。

KCON WALKER

インド・バングラディシュ・タイ・ミャンマーの橋梁・社会基盤構造物視察団(インド編)

インド・バングラディシュ・タイ・ミャンマーの橋梁・社会基盤構造物視察団(インド編) 

顧問:H.

期間:2013921日(土) ~ 930日(月)

                < 10日間 >

 

 

 -1 視察旅行訪問国

 成田→バンコク経由インド(コルカタ)→バングラディッシュ(ダッカ)→タイ(バンコク)→ミャンマー(ヤンゴン)→バンコク経由成田

視察旅行報告

平成25年9月21日

日本時間15:30成田空港4階集合、

18時バンコクに向け離陸。

 バンコクで乗り換え、インド・コルカタのホテル着は日本時間22日午前5:30頃、現地時間1:30頃、

 通貨レート 1ルピー:約1.7円

空港からホテルに向かう道中の高速道路の橋脚が細い。地震がないのであろう。道中、黄色いタクシーが多く、そのボンネットや屋根で寝ている人が多く見かけた。

 

平成25年9月22日

 かつてコルカタは英国圏でカルカッタ(calcutta)と呼ばれていた。「コルカタ」は現地言葉で、2001年にコルカタ(kolkata)に変えられた。

 コルカタはガンジス川の支流であるフーグリ川の東岸に位置し、昔の首都で綿花やジュートによる繊維工業が盛んになり、後には鉄鋼資源の発見と共に金属・機械工業が発展することになる。

 後に反英感情が高まり1911年に首都をデリーに移した。

 1947年にインドは独立した。

 写真-1 古い英国風のホテル

 写真-2 ホテルの電話

   写真-3シュコダ製の車

ホテル前に「シュコダ」製の乗用車が止まっていた。(写真-3)、「シュコダ」はプラハにある機械メーカーで、自動車も製造していたが、ソ連に併合され、共産国になって以来衰退し、現在BMWの傘下に入っている。

プラハ市内を走る車の多くはシュコダ製(写真-3、4)で、日露戦争で活躍した戦艦三笠のスクリュウや秋山好古の騎兵隊が使用した機関銃もこの「シュコダ」製が多く使用されたということをプラハのガイドさんから聞いた。

 写真-4シュコダ製

  写真-5花の市

当日9:00集合

(ホテル着日本時間午前5時仮眠の後出発)

 ハウラー駅からハウラー橋まで昔は半日掛ったが、コナハイウェイができたので、現在は15分くらいでゆけるようになった。

ハウラー駅周辺の店に荷物を持ち込むのに、頭の上に荷物を乗せて歩いている姿をよく見掛けた。荷物の重さは男性で30~40kg、女性で約20kg。(写真5、6) 

インドではテロ対策のために橋梁や駅の撮影は禁止されている。

1984年、大成建設が地下鉄を完成させている。

ハウラー橋は1937年から1943年にかけて建設された。長さ705m、高さは97mのカンチレバートラス橋(ゲルバー橋)であり、材質は鋼鉄であるがナット、ボルトを使わずすべてリベットで組み立てられている。どこでリベットを焼き、放り投げたのかな?フグリー川の流れを妨げないよう、川の中間に橋脚を設けておらず、両岸から支えているのが特徴である。

  写真-6頭上に荷物を乗せて運搬

 橋の長さは655.94m、取り付け道路を含めると全長705mとなる。また道路部の幅は約22m、両側にある歩道部が約5mで、全幅は約32mとなる。

材質についてはエッフェル塔(1900)が錬鉄の最後と言われていて、SS400等の軟鋼強度の80~90%のスティールが使用されているのではないか?

ハウラー橋(写真-7)がカンチレバートラスなのは、経済性だけではなく橋脚付近の地盤が良くないこともあり、不同沈下に強い橋梁形式としたのでは?

この形式では英国のフォース鉄道橋が有名だが、この時代になると片持ち部と吊桁部が連続したような形となっている。

港大橋は上路だが同形式で、中央径間の長さは510mで世界3位だそうだ。架ける時はカンチレバ-部分を延ばしていったあと、中央径間を架ける。最近では一括架設するが、当時はどうしたのか。(Dr.並木宏徳・談)
 

写真-7ハウラー橋(コルカタ) インターネット コルカタのパンフレトより2013/10/07

 

  

年の開通時、この橋は旧来の浮き橋に対して「新ハウラー橋」と呼ばれていた。しかしアジア人としてはじめて1913年にノーベル文学賞を受賞した詩聖、ラヴィーンドラナート・タゴールにちなみ1965年「ラヴィンドラ橋」と改名された。(1902年タゴールは岡倉天心と親交を結んだ)(ハウラー橋とは、英語で呼ぶ場合の通称)その頃のハウラー橋は、同種の橋としては世界で有数の、アジアでは最大の457.5mの中央径間を誇る橋であった。現在は道路橋として使われているが開通当時は路面電車が走っていた

ピーターザガルセル橋のケーブル材にはPCより線より状態によるばらつきが大きく、ヤング係数にばらつきがあった。今は大丈夫。より線はドイツ製で、日本は棒鋼を提案したが、高かった。

 

 

 

 

ハウラー橋を後にIABSE会場(写真-8、9)に、蒸し暑い所から急に冷房の効いた爽やかな環境になった。

 

その後、モイダン公園(写真-10)へ、公園内には競馬場があり、イギリス植民地時代の名残である。フーグリ川とチョウロンギ通りの間に広がる公園で、南北約3㎞。

ヴィクトリア記念堂の敷地のすぐ東側には、セント・ポール大聖堂がある。ゴシック様式のキリスト教会で、やはり荘厳な外観、厳かな内部ともに見応えがある。しかし、よくよく考えてみると、いずれもインドがイギリスの植民地であった時代の証人だ。

タージ・マハルをモデルにし、ヴィクトリア女王を記念して立てられたヴィクトリア記念堂(写真-11)がモイダン公園内にある。

 

 

昼食

レストランでビール大びん1本の価格を聞くと270インドルピーとのこと、 1ルピーは1.7円、1本当り270*1.7≒480円となる。

船から橋梁視察

 1932年、ヴィヴェカナンダ橋(SwamiVivekananda) (トラス橋)(図-2)が造られた。この橋は電車とバスが主に通行し、並行して斜張橋のニヴェリタ(Niverita)橋が2007年に完成し、この橋は一般車に供用されている。ニヴェリタはヴィヴェカナンダ師の女性弟子の名前である。

 

 トラス橋・斜張橋ともに橋脚の位置が同じで、船上遠くから見ていると、トラス橋しか見えないが、近づいてくると斜張橋の姿が現れ、美しい光景を現している。

 コルカタの主な産業は麻の生産である。

 

 地震はたまにはあるが、サイクロンは毎年来る。帰国後、10月12日の報道では「インドに超大型サイクロン、暴風・高潮で数十万個損壊」とあった。インド東部オディシャ州のベンガル湾沿岸に12日夜、超大型のサイクロンが上陸し、PTI通信によると、風速約60メートルの暴風や高潮などで数十万戸の家屋が損壊。少なくとも17人が死亡した。

 1999年に同州などを襲ったサイクロンでは1万人近い死者が出た。今回はそれ以来、最大級の勢力とみられていた。地元州政府は前回の教訓から、海岸沿いなどに住む約90万人をあらかじめ避難させており、パトナイク州首相は「住民たちの協力で人的被害を最小限にとどめることができた」と語った・・・とあった。

インドの鉄道レール幅 ラージゲート:1.67m ミカルゲート:1.02m、ネロゲート:0.72m、 ちなみにJR:1.067m 新幹線:1.435m

ガンジス川では沐浴の風景をよく見た。その後、ホテルへ、19時より夕食。

(次回へつづく)