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KCON WALKER

インド・バングラディシュ・タイ・ミャンマーの橋梁・社会基盤構造物視察団(ミャンマー編)

9月27日

ミャンマー ガイドはキンさん

ヤンゴンは仏教徒が85%、キリスト教7%、イスラム教8%

治安のよい街らしい

貨幣通過:100チャット≒11円(円両換不可)

 1948年独立し、1989年、ビルマからミャンマーに国名が変更される。

ヤンゴン市名称の変化

 オッカラー→タゴン→ヤンゴン(ヤン:戦争、ゴン:終り)→ラングーン→ヤンゴン

 

ヤンゴンには世界一古いパコダ(シュエダゴン・パコダ 写真-63)がある。2600年前、お釈迦様が生きている間に造られた。

 写真-63シュエダゴン・パコダ

 ブッダが生きている間に7回修復を行い、高さが21mから198.7mになった。

 

 お釈迦様は北を枕に、足を南に向けて寝ておられる。頭寒足熱で効率の良い寝方だが、そのような寝方をしていると「涅槃(ねはん)に入る」という意味があるらしい。

 ミャンマーでは生まれた曜日の合う人と結婚する習慣があり、パコダにはそれぞれの曜日に対する水かけ釈迦堂がある。

池田コーディネーター(写真-64)の美声を聞きながら美味しいワインを頂いた。

 写真-64池田コーディネーター

 

以下、ガイドさんの話。

 ミャンマーには120民族が住んでいる。面積:68万km2、人口6000万人、その内600万人がヤンゴンに住んでいる。

 英国の植民地であったが1948年に独立した。

市内では車のクラクションが聞こえない。ヤンゴン市内ではクラクションを鳴らしてはいけないし、バイクの乗り入れも禁止されている。

 

古い車を一台拠出すると、新車を一台購入する権利をもらえる。昔の関税は300%であったが、現在は50%に下がった。

 土地代は高騰しており、都市部では東京並みとのこと。都市部は学生の送り迎えでいつも混んでいる。

ミャンマー人が持っているカバンをヌエ・エット(写真-65)という。

 1972年左側通行を右側に変更した。

 1826年、1852年、1885年の3回英国に攻め込まれた。

英国は船を造るチーク材が欲しかったとか。

  1852年、英国がヤンゴンを首都とした。写真-66にアウンサン将軍、写真-67はスーチーさんの自宅である。

 

橋梁技術訓練センター設立

1979年、橋梁技術訓練センターが設立されたが、それまでには、多くの経緯があり、中でも大きな要因の一つに国広団長以下実施協議チームの遭難事故があった。センターの位置を図-7に示した。

  センターは毎年20名の訓練生を対象に橋梁技術者要請を目的とした訓練を行い、当時、日本の援助でセメント工場が造られ、自給できるので、上部工はコンクリートに絞って設計された。ビルマでの最初のPC橋は1962年から65年にかけてカナダの援助で架けられたタケタ橋がある。この橋はヤンゴン市の東部および南東部と中心部を結ぶ道路ネットワーク上に位置し、老朽化による交通制限によってボトルネックになっている橋梁の架け替えを行い、物流の効率化を図るとともに、地域住民の生活改善にも資することを目的としたものである。

 図-7橋梁技術訓練センターの場所

 ミャンマー(ビルマ)は南北約2100Km、東西900Kmで、イラワジ、シッタン、サルウィンの三大河川で縦に分断され、南北交通網は発達していたが、東西交通網が遅れていた。

ツワナ橋は建設費全額を日本からの贈与(グラント)によったが次のナウアン橋はミヤンマー政府が自助努力で11億円掛け、自国で供給できない資材については日本政府が5億円の無償資金協力を行った。

コンクリートについては容積配合が一般的で、小型の移動式ミキサーで練り混ぜたものを、女性作業員が鉄鍋を頭に乗せて運搬するという品質管理以前の段階であった。

 ツワナ橋(写真-68)は本工事期間中、日本人技術者が長期間張り付いて指導したが、ナウアン橋(写真-69)では日本人技術者はスポット的にしかタッチせず、ほとんどミャンマー技術者で行った。

 参考文献

1.技術協力の立場から(橋梁技術訓練センターの近況報告を兼ねて)今村浩三

プレストレスコンクリート Vol..23,No.2,Mar.1981 より抜粋

2.PC長大橋建設技術の移転(ミャンマー橋梁技術協力12年の歩み)

Vol..33,No.5,Sept.1991 より抜粋

 

1978年、建設省土木研究所構造橋梁部長(当時)の国広哲男氏を団長とする調査団がミャンマーを訪れた際、現地視察のため搭乗したビルマ航空機が墜落事故を起こし、国広団長ら団員6名とミャンマー側カウンターパート2人が殉職するという事故が発生した。ツワナ橋、ナウアン橋はこれらの方々の無名碑である。

日本人墓地に参拝:ビルマ戦線で亡くなられた多くの方々の慰霊碑があり、また、故国広団長以下の方々のお墓に詣でた。

亡くなられた方々:国広哲男(建設省)、山本崇史(建設省)、古屋敏夫(建設省)、椎 泰敏(首都高速道路公団)、加藤貞行(国際協力事業団)、相川憲夫(外務省)

初代橋梁研修センター所長は日本道路公団OBの今村浩三氏が当たった。

 

タンリン橋並びに第二タンリン橋

 タンリン橋(写真-73・74)はヤンゴン市とタンリン市の間を流れるバゴー川に架かるビルマ最長の橋で、1993年7月31日に開通した。鉄道・道路併用橋として中国資本で作られたが、直下流側に日本が新しい第二タンリン橋を架橋することとなっている。近年、現橋の重量制限が36tから20tに引下げられたとか。

 

ダウェ-経済特区(写真-75・76)

 車、電気製品をシンガポール経由で輸入している。チーク材はミャンマー国家のものとして輸出している。当視察旅行副団長・那須野夫人が視察旅行中に収集された新聞記事を記事-1に示す。

日本より中古自動車が運ばれている。船一艘当り3000台が積まれているとのこと。

 タゴンブリッジ(写真-77)

 2007年10月に開通、橋長1360m、3車線だが取り付け道路が一車線の為、取り付け部分の整備が急がれる。

 1988年、スーチーさんがお母さんの看病でイギリスから帰国したが、国から出られなくなった。

 

ミャンマーの女性が顔に塗っているもの:「タナカ」(写真-78)

  化粧品として、または日焼け留めとして顔に塗っている。「タナカ」という木の皮を剥ぎ、木の幹を磨り潰して使用する。娘は顔にも手にも足にも塗っている。子供の頃から「タナカ」を少しづつ食べさせると血液が綺麗になり、薬にもなると言われている。近年自然のもの、レディメードのものなど色々ある。

 6~10月のワンゴの期間は結婚しない。

トイレに洗車機のようなものがあった(写真-79)。トイレ掃除用に取り付けてあると思っていたが、実はウオシュレットだそうだ。

 昭和45年にフランスに行った際、大便器の横にもう一つ便器のようなものがあり、中央に水の飲み口のようなものがあった。同行した御夫人の中に、あれは洗濯をするところで私は昨夜洗濯をした、と言っていて知らないということは強いなと思った。

 つれずれなるままに、日暮らし、硯に向かひて心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。吉田 兼好

 つれずれ草の件(くだり)の如く、とりとめもなく書き進み、いつの間にかミャンマーまでたどり着いた。

 今回の橋梁視察は鋼構造物を多く見学した。鋼材はどれも同じと思っていたが、非常に種類があり、微々たる配合の違いにより性質が大きく異なるということをDr.並木宏徳氏(京橋工業社長)に気付かされた。

(次回へつづく)