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KCON WALKER

コンクリートの起源から構造物築造の変遷 Vol.04

こんにちは!

弊社の顧問執筆によるコンクリートについてのいろいろなお話が新しくスタートします。
おもしろいのでぜひご覧ください。

 

15、濃尾地震
明治24年(1891)10月28日午前6時37分、濃尾地震発生、岐阜県美濃地方、愛知県尾張地方を突然猛烈な地震がおそった。31日までの4日間に、烈震4回、強震40回、弱震660回、微震1回、鳴動15回、合計720回を数えた。その後も余震は絶えなかった。震源地は本巣郡根尾谷(現本巣市根尾)、M8.0。
日本に初めてセメントが輸入されたのは慶応元(1865)年であり、国内生産は明治6(1873)年からであった。明治24(1891)年の濃尾地震では多くの煉瓦造りの建物が倒壊したが、セメントを使用した構造物の被害は少なく、その堅牢さが実証された。写真-34~36に震災被害の状態を示す。


16、防波堤のひび割れ
セメント産業は、日清戦争(明治27(1894)年)後の好景気に伴い飛躍的な発展を遂げたが、横浜港の防波堤で多数のひび割れの発生が確認された。
この問題は、帝国議会でも取り上げられ、多くの者がコンクリート構造物の築造に苦労し、試行錯誤を繰り返していた。RC構造物は、運輸・軍事・鉱業といった分野が多く、RC造建築物が本格的に発展するのは大正12(1923)年の関東大震災以降である
横浜港防波堤は明治22(1889)年に着工された。しかし、明治26(1893)年、多数のひび割れが発見され、帝国議会で問題となり、明治26(1893)年3月に原因究明及び再発防止のために調査委員会を発足させた。
ブロックを水中に沈めるとき盛んに気泡を発し、水中から引き上げるときも底面から多くの水が流下して、ブロック内に大量の水が浸透していることがわかった。写真-37、38に引き上げられたコンクリート塊を示す。
 ブロック製造後30日以内に沈設し、中でも多くが14日以内の据付だった。
 砂に対するセメント量が少なく、割栗石がやや大きかった。締固めが不十分であったためにブロックに空隙が残った。
明治26(1893)年3月の調査以降建設された防波堤(写真-39)は現在もその機能を立派に果たしている。
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写真-34 長良川鉄橋落橋


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写真-35 大垣郭町(岐阜県図書館蔵)


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写真-36大垣警察署(岐阜県歴史資料館蔵)


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写真-37 横浜港のコンクリート塊


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写真-38 横浜港のコンクリート塊


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写真-39 改築された防波堤

 


17、神戸水道の誕生・布引貯水池五本松堰堤
 幕末、幕府の開港政策で神戸が選ばれた。明治初期は急増する水需要に対し、飲料水不足が続き不衛生な環境の中、明治23(1890)年にはコレラが大流行し、1000人あまりの死者を出した。これを契機に水道敷設の機運が高まり、明治33(1900)年4月、神戸水道は日本で7番目の水道として給水を始めた。
新神戸駅の北側の写真-40、41に示す布引貯水池五本松堰堤は明治30(1897)年着工、明治33(1900)年3月竣工で、112年を経過しても変わらず神戸市民の生活を支え続け、当時の人々の水道創設への努力を今に伝えている。
当時一般の日本人は「水は井戸を掘ればタダで手に入ると思っていて、どうしてそんなにお金が掛かるのか」という考えが主流であった。
東日本の玄関口の横浜では水道が完成していて神戸は出遅れた。計画から10年、暴れ川の生田川に和洋折衷の水道専用ダムを造ることとなった。
 布引ダムの設計に関与した人物として、神戸市水道技師長(1895~1899)の吉村長策、神戸市の委託技師だった佐野藤次郎の名前が挙がっている。
日本初の粗石コンクリートダムの誕生を、二人のうちどちらが主導したかは不明であるが、両人物ともわが国ダム黎明期における代表的な技術者であり、その両者が初めて一緒になって造り上げた共同作品としての価値は高い。
 外国の船員たちは布引の水を汲んで出向したところ、赤道を越えても水が腐らない、おいしさも変わらない、「コーベウォーターは世界一の名水」と語り継いだという。水道専用ダムとして使用される日本最古の重力式コンクリートダムで、表面は型枠を兼ねて布積み状に花崗岩が張られ、この形式のダムとしては日本初のもので、それ以前はアースダムしかなかった。ダムの工期は3年だが計画から完成まで15年の歳月を要した。


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写真-40布引ダム


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写真-41ダム湖


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写真-42 ディンテル


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写真-43 桂ダム


 コンクリートの混合機がなかった時代、佐野藤次郎はまず、堰堤の上流近くの少し平坦なところに4台の練り台を設け、総勢34名を動員し、人力で混合した。当時はセメントの偽凝結を抑えるために石膏を加えていなかったために凝結が早く、30分以内に打設するという時間との勝負になった。また、セメントは非常に高価なもので、工事費の半分を占めたとか。
 堰堤は石積みの技術を駆使し、城の城壁を思わせる威然たる日本の力を象徴させた。その後の文献によれば「意匠上の特徴は提体下流側上部の垂直面が円弧へ連なる部分につけられたデンティル(歯飾り)(写真-42)である。これは19世紀中ごろイギリスで流行していた新古典主義の影響を受けている。一段の石を周囲より前に出し、飛び出した部分の4辺を削るという細かな細工が施されているが、こうしたところに佐野藤次郎の装飾にも気を使った精神が見て取れる。」とある。
写真-43に示す桂ダムは堤高15mに満たないが、布引五本松ダムに次いで日本で2番目に古い重力式コンクリートダムと称される。
 1889年に舞鶴に設置された旧海軍鎮守府が舞鶴港の船舶補給用水確保のため、軍用水道の施設として建設。現在は舞鶴市の水道水源として使われている。2003年に「舞鶴旧鎮守府水道施設」として国の重要文化財に指定された。
今では与保呂川の上流にある貯水池は土砂が溜まり、すでに役目を果たし終えた様子だが、その美しい姿は山奥を思わせロケーションに映えている。

 

参考文献
コンクリート材料工法ハンドブック
セメント産業における非エネルギー起源二酸化炭素対策に関する調査
コンクリートの長期耐久性・小樽港100年耐久性試験に学ぶ
 土木学会・第一大戸川橋の概要335委員会成果報告書
 雑誌:コンクリート工学
 神戸市水道局パンフレット
 湊川隧道保存友の会パンフレット
 建設業界⑩⑪ volume 52、2003
 土木学会誌 1992年11月号 北の国からの大いなる遺産
 その他インターネットより