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KCON WALKER

IABSEシンポジウムと中央ヨーロッパにおける橋梁・構造物視察ツアー Vol.3

C150915 ウィーンからベオグラード(セルビア)へ

 午後の飛行機でウィーンを離陸、1時間でベオグラード着。

 ガイドはシランさん、運転手はロベルトさんでクロワチアの人。

 1.面積77,474平方キロメートル(北海道とほぼ同じ)

 2.人口712万人(2011年国勢調査)

3.首都ベオグラード(人口164万人)

 4.民族セルビア人(83%),ハンガリー人(4%)等(2011年国勢調査)

 通貨:1000円→864dinara(ディナール)

 セルビアの国会議事堂は、ユーゴスラビア統治後は同じ国会議事堂が使用され、後にセルビアの国会議事堂として使用された。

 

セルビア共和国、通称セルビアは、南東ヨーロッパ、バルカン半島中西部の内陸に位置する共和制国家。かつてのユーゴスラビアに属した地域の中央に位置しており、政治的にもその中心となる国であった。

 首都であるベオグラードは、ユーゴスラビア誕生以来2006年にセルビア・モンテネグロが解体されるまで一貫して連邦の首都であった。200663日のモンテネグロの分離独立に伴い独立宣言をした。セルビア内のコソボ・メトヒヤ自治州がコソボ共和国として事実上独立状態にある。

セルビアの歴史;近代以降、セルビアはオスマン帝国の自治公国(1817年から1878年)、独立公国(1878年から1882年)、独立王国(1882年から1918年)、セルビア・クロアチア・スロベニア王国の一部(1818年から1941年)(1929年からユーゴスラビア王国に改称)、ナチスに占領された傀儡国家のセルビア救国政府(1941年から1944年、ネディッチ政権とも)、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の中の社会主義共和国(1945年から1992年)、そしてユーゴスラビア連邦共和国のうちの共和国(1992年から2003年)、モンテネグロとの国家連合であるセルビア・モンテネグロ(2003年から2006年まで)と遷移してきた。2006年にはモンテネグロとともにそれぞれ独立を宣言し、セルビア・モンテネグロは解体された。≪ウィキペディアより≫

 

トロリーバスは共産圏で発展した交通機関である。

 写真C-1~6に市内の状況を示す。


 

72時間爆撃が続き、被害を受けたビルがそのまま静置されていたものを写真C-7・8に示す。当時、ステルス戦闘機が墜落した際、ソ連・中国が直ぐに持ち帰ったという話を聞いた。

写真C-9・10に聖サワ大聖堂を示し、セルビアの首都ベオグラードにある世界でも最大級の正教会の大聖堂である。

ガイドさんの話では、ローマカトリックは偶像で表現しているが、ロシア聖教は絵画で表現しており、聖堂内部は鮮やかな絵画が彩られて表現されていた。

撮影禁止で鮮やかな色彩を脳裏に収めるしか出来なくて残念だった。

 ベオグラードの地形はほとんどがレベルの状態であった。

 

D150916 ベオグラード2日目

アダ橋:サヴァ川を渡る新しい斜張橋の建設がスロベニア人・ルイスパーニュアーの設計で2008年から建設が始まり、車道部は2011年12月31日に開通した。写真D-1・2は高速道路と結ばれるアダ橋で、写真D-3はセンターポールからの左右支間長の違いを示している。アダ橋中央の塔の高さは200メートルであり、多数のケーブルによって橋桁を支持するようになっている状態を写真D-4に示す。橋長は996m、幅45.5mで主塔からのそれぞれ端部までの支間長が異なり、その比率は写真D-3から右側スパン:左側スパン=1:2.5くらいであり、短支間はコンクリート床版で質量が大きくなるようにし、長支間(河川上)は鋼床版で総質量を軽減している。

橋桁中央部は鉄道が走行するスペースになっており、島の上にはライトレール駅が設けられ、地上と高架部分を結ぶエレベーターが設けられている。現在施工中だが、作業員の姿はなかった。

 

基礎地盤は硬そうで、ユーゴスラビア時代に地震力M6で設計されたそうだが、未だに地震は発生していないとの事である。上部構造からすると橋脚は細く、写真D-5・6から床版の浮き上がり防止用にダンパーが取り付けられているようで、地中にはアンカーが施工されているのではないだろうか?

当地には日本のように台風はないが強い季節風が予想され、完成前に強風による回転力の発生することが予想され、落橋に繋がる心配事があったのではないかと推測する。

写真D-7はアダ橋中央部分に鉄道部分が設けられていて、現在施工中である。また、写真D-8から、橋上のコンクリート構造物にはポップアウトが発生した形跡があり、寒冷地であることが分かる。

写真D-9・10はサヴァ川を渡る鋼床版部分と床版下面を示す。

 

写真D-11・12はノビルシャネスキー橋・斜張橋・・・情報が取れず

 

写真D-13・14はパンチェボ橋で、ドイツ製の鉄道橋である。

アダ橋の中央部に鉄道が開通すると歩道橋になる予定と言われていた。

写真D-15・16はガゼル橋、中央部がアーチである。

 ドイツ軍がガゼル橋を爆破しようとしていた。それを見ていた老人がソ連軍に連絡して爆薬を除去し、落橋を免れたという話がある。

ブランコ橋 古い橋は1956年築、新しい方は1979年築の鋼製箱桁で、アレキサンダー一世のために架橋されたと聞く。しかし時代が合わない。

 写真D-17~20にブランコ橋の側面・下面を示した。

写真D-21・22はE-70号大幹線もしくはE-75号大幹線?であり、どちらか判明しない。当初4万台の計画が16万台になった。

 

写真D-23・24はベオグラードで見たコンクリート船である。

1943年築 全長約32m

日本のコンクリート船

日本で建造されたコンクリート船は10隻。自走型貨物船(E)・武智丸全長60m4隻、自走型貨物船・第一国策丸全長36.9m・1隻、被曳航油槽船・全長58m5隻。

1941年、国家総動員法に基づく金属類回収令が出された。窮余の策としてコンクリート船建造が浮上した。1941年初頭に舞鶴海軍工廠においてコンクリート船の基礎研究が始まった。武智丸は船体長60m、幅10m、高さ6mの小型貨物船で第一国策丸、被曳航油槽船含め計10隻建造された。

 コンクリートの設計基準強度は30N/mm2、配合はCSG11.53の富配合コンクリートが採用された。

 コンクリートは手練りで、セメントと砂を固練り殻ね利した後、水を加えた。スランプは8cm程度、W/C40~45%であったと推測される。打込み高さは1.0~1.5m6層に分けて施工された。鉄筋は直径9~25mm、引張強度は340~530N/mm2である。

継手は溶接、水密性確保のために船殻外面の喫水線以下を薄鉄板で被覆している。又、薄鉄板の代わりにアスファルトを塗布する場合もあったとのことである。コンクリート船は質量が大きいために航海速度が遅く、航海性能が劣るために敬遠されたようだ。自走型貨物船武智丸4隻のうち2隻が広島県安浦漁港の防波堤となっている。

 防波堤に沈設された武智丸は船体の1/3が浸水しており甲板や2階付近を対象とした調査ではコンクリートのはく落は認められず、内部鉄筋の腐食による錆汁や盤ぶくれの箇所も見当たらなかったとのことである。中性化深さは海水に接する外面は数mm程度で、内側は20mm程度であった。

 かぶりは25mmで設計されていて、65年経過時点で顕著な劣化は進行していないとのことであった。W/Cが小さく、入念な施工によるものと思われる。

                   舞鶴高等専門学校・岡本寛昭教授

 

写真D-25はコンクリート船・武智丸で、写真D-26に浦安漁港防波堤の由来が書かれている。

写真D-27には防波堤となった武智丸を示し、写真D-28・29に船内を示した。

「永遠に燃えるユーゴの火」の塔があった。