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KCON WALKER

スペイン・南フランスの旅 vol7

⑪ 9月10日 バルセロナからモンペリエに向け出発

 明日はカタルーニア州の敗戦の日で、忘れられない日であり、その日を記念して休みとなる。

同様の話が他にもあり、個人的な話になるが、「呉越の戦い」があり、呉の夫差と越の勾践の話、また、徳川家康の「しかみ像」の話などがある。

 

臥薪嘗胆 

『史記』によると、紀元前6世紀末、呉王闔閭は先年攻撃を受けた復讐として越に侵攻したが敗れて自らも負傷し、まもなくその傷がもとで病死した。闔閭は後継者の夫差に「必ず仇を取るように」と言い残し、夫差は「三年以内に必ず」と答えた。夫差はその言葉通り国の軍備を充実させ、自らは薪の上で寝ることの痛みでその屈辱を思い出した(臥薪、この記述は『史記』には存在せず、『十八史略』で付け加わっている)。

まもなく夫差は越に攻め込み、越王勾践の軍を破った。勾践は部下の進言に従って降伏した。勾践は夫差の馬小屋の番人にされるなど苦労を重ねたが、許されて越に帰国した後も民衆と共に富国強兵に励み、その一方で苦い胆(きも)を嘗(な)めることで屈辱を忘れないようにした(嘗胆)。その間、強大化したことに奢った呉王夫差は覇者を目指して各国に盛んに兵を送り込むなどして国力を疲弊させた上、先代の闔閭以来尽くしてきた重臣の伍子胥を処刑するなどした。ついに呉に敗れて20年後、越王勾践は満を持して呉に攻め込み、夫差の軍を大破した。夫差は降伏しようとしたが、勾践が条件として王への復帰を認めなかったために自殺した。(ウィキペディア・フリー百科事典より)

 

徳川家康の「しかみ像」

三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、元亀31222日(1573125日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった、武田信玄軍27,000人と徳川家康軍11,000人(うち織田信長からの援軍3,000人)との間で行われた戦い。信玄の西上作戦の過程で行われた戦いであり、家康が大敗したことで有名な戦である。家康はこの惨めな姿を忘れないように絵師を呼び、描かせた。

 

しかみ像

 ガウディはカタルーニア人でスペイン人とは言わなかった。

 カスティーリア王国・アラゴン王国の国王フェリペ二世の時代には太陽の沈まぬ国を作った。

 ヨーロッパでは宗教を知らないと芸術・歴史・文化・政治は解らない。

 

 バルセロナに日本人は1800人いる。

サンツ駅からAVEに乗りモンペリエへ、(スペインからフランスへ)

 スペイン高速列車はAVE 、フランスの高速列車はTGV。

 

モンペリエから数時間岩山の間を走る。モンペリエの高速道路は最高速度が130km/hで最低速度は80km/hである。

1930年から有給休暇制度を導入した。当時地中海沿岸にはバカンスに出かける施設がなく、政府は地中海沿岸にリゾート地を建設して海外に流出する旅行客を食い止めようとし、1981年ミッテラン大統領が休暇を5週間とした。

 昔は約3~4週間が普通の取り方であった。しかし、長期に取ると弊害も多く、近年は短期間で数回取るようにしているようだ。休暇中の仕事を他人が行うことはなく、全て自分の責任において行われている。

 7月下旬から8月下旬にかけて休暇を取り、南にゆく人、北にゆく人で非常に混雑した。

 ミヨー市はローマ時代からある街で、人口24000人、焼き物が有名であったが、手袋のような革製品も有名であった。しかし、他の商品に押されるようになり、鉱物も産出され、金属工業も営なわれている。

 バカンスの折、大きな渓谷を通過する際に大渋滞が発生するため、これを解消する目的で渓谷にタルン川を越える大高架橋を建設することになった。

 最も高い主塔は橋脚および主桁と合わせると地上よりの高さ343mとなり、2004年12月14日に式典が行われ、12月16日に開通した。

 フランス南部は大きな地震・台風はないが、季節風の強い時があり、風速25m/sで通行車両は徐行運転、30m/sで通行禁止、40m/sで橋梁の通行閉鎖となっていて、風速67m/s(240km/h)に耐えられるように設計されている。

 コンクリートの詳細な配合を現地案内所で聞いたが、よく分からず、シリカフュームが混入され、ファンデーション部分の設計基準強度は36N/mm2、橋脚部分は60N/mm2(ただし、98日)となっている。

 支柱は完全な円形ではないが、一番太いところで約φ15mである。橋脚部付近を走る車の大きさから推測できる。

 通行料は7~8月は9.1€、シーズンOFFは7.8€とのこと。運営はこの建設を行った建設会社とエファージュ社で設立した会社で、政府との契約により75年間料金を徴収し、橋の運営を任せられている。耐用保証年数は120年である。これはエッフェル塔が築120年経過していることから定められたらしい。

 エファージュ社はエッフェル塔を建設した名門会社でもある。

 

 ミヨー橋は7本のコンクリート製橋脚で支えられ、鋼製8スパンの桁からなっている。桁の重量は36000 t 、長さ2460m、幅32m、桁の厚み4.2mで、中央6スパンの各支間長は342mで、両スパンは204mである。道路面は南から北へ3.025%の下りで、半径20kmの緩やかな曲線となっている。道路は片側2車線、主塔の桁までの高さ(橋脚高さ)77~246mで橋脚上にはそれぞれ87mの鋼製塔が建っておりここからケーブルで桁を支えている。(インターネットによる情報)

建設時の手順を見ると、中央径間部については斜ケーブルを張った主桁を両側から押し出す工法が採用されている。これは主桁のみで張り出すと、片持ち梁の根元が座屈に耐えられなくなるからである。

 お互いに張り出し、結合の後それぞれ橋脚上に鋼主塔を建てて、斜ケーブルを張るといった工法が取られている。少々曲線になっており、押し出しには苦労されたと思う。

 

ミヨー高架橋見学の後、モンペリエへ、モンペリエ泊

 

⑫  9月11日モンペリエ発リヨンに向け出発

 ポン・デュ・ガール(ローマ時代の水路橋)

以下、現地にて購入した解説書より抜粋

 

 (ガルドン川に架かる橋という意味で、フランス国内で最も有名な古代ローマ建造物の一つである。

 画家・ラブレーは作品の中で「人間が造ったというより神が創られたようだ」と言わせている。

 この地、ニームは紀元前120年、ローマ軍に征服される前からあった。ローマ化された都市、ニームは重要な文化拠点となり、立派な建築物が建てられていった。

 ニームでローマ人が水路建設を始めたのはAC50年ころで、都市ニームを飾る数々の噴水や浴場、公園に大量の水を供給するために大規模な工事が行われた。

 ポン・デュ・ガールは高さ48.77mでローマ時代に造られた水路橋の中で最も高いものである)

 橋脚の上流側水平断面形状は水の抵抗を少なくするために三角形としている。橋全体は石材と石材間にセメント等を挟まずに積み上げられている。最下部のアーチ6個と中階層の橋11個のアーチ幅は15.5~24.5mで、他の水路橋ではアーチ幅が5.2mを超えるものはない。

 

最上階の導水管の内部は、高さ1.9m、幅1.4mで、内壁には「マルタ」と呼ばれるローマ人秘伝の赤茶色の漆喰が塗られていた。

 「マルタ」の製造方法は「石灰をワインの中で消和し、豚の脂身やイチジクを混ぜて製造する」とあり、非常に粘着力の強い漆喰となって現在も残っている。(解説書より)

 流水量は3万5千m3/日と推定される。ちなみに琵琶湖疏水の水量は200万   m3/日、石材はエステルの石切り場から切り出した。この石材は非常にもろい石材にも関わらず、何世紀にも渡る風水害に立派に耐え抜いている。

 高さ48.77mの水路橋建設には数トンにも及ぶ石材を起重機のような装置を使用し、築造していった。

 ローマ時代の建築家・ヴィトルヴィウス(BC1世紀)の著書(1414年発見)には当時の大掛かりな装置がいくつか紹介されているらしい。(解説書より)

 アーチ部分の組立にはトンネル支保工と同様のものが組み立てられ、アーチを形成してそれに添って石材を積み上げていった。アーチ部の付け根には張り出した石材があり、その石材を支点として組み上げたのであろう。

 ユゼスの湧水をニームまで引いた。直線距離にして20kmだが、障害物を迂回し、水路全長は50kmに及んだ。取水地のユゼスと終着点のニースの高低差は12.27mで35000~4000m3/日の流水量、つまり、400ℓ/sを確保した。水道の到達点には直径5.5mの円形給水槽が設けられ、ニームの中心に向け10個の口を設け、それぞれの街に分配するように作られていた。

 日本でも同じような形式の構造物が築造されていて、「円筒分水工」と称されている。

「円筒分水工」

水田耕作が主体であった日本では、各地で農業用水の確保にまつわる喧騒が絶えず、農業用水の正確な分水は長く懸案であった。そこで、大正年間より各地で似た構造の分水樋が考案され、造られはじめた。

 

当初は高低差を利用して導水する方式のものが造られたが、1934年(昭和9年)になると福島県や長野県などで地下から吹き上げる方式のものが造られるようになった。ただし長野県に造られた施設では円筒を使わず、分水樋の中央に吹き上げられた水が放射状に拡がる原理を利用したもので、流水量に偏りが生じるといった欠点もあった。

上記の欠点を克服するために、円筒状に組んだコンクリート設備の中心にサイフォンの原理で導水し、円筒を越流させて分水する方式が考案された。この方式を採用したのが神奈川県川崎市高津区久地にある久地円筒分水(国の登録有形文化財)で、同地にあった二ヶ領用水の分水樋の改修に際し、1941年(昭和16年)に造られたものである。この方式により平地の用水路でも正確な分水を実現できたため、以降、同様の方式のものが全国各地に造られるようになった。(ウィキペディアより)

 

ポン・デュ・ガールの解説書にアーチ構造の施工状態が掲載されていた。解説書のように支保工を組んでその上に石材を載せてゆき、アーチ構造とした様子が伺える。田村宗立が描いた琵琶湖疏水の土圧を支えるトンネル支保工の逆を考えれば容易に理解できる。壁面に吐出している石材は、足場を組むために使用したものか、また、支保工を組むために使用したものかは定かではないが、何れにしろそのような方法でアーチ部分を組み立てたと考えられる。

 

9月11日夜はリヨン泊

 グループでの会食は今夜にて最後となる。食事の後、有名なアップルパイを頂いた。

 旅行中に美味しいものをたくさん頂き、体重計に乗るのが怖い。

 

9月12日 リヨン発チューリッヒ経由で成田へ。

9月13日 朝、無事成田着。お疲れ様でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

14、おわりに

 マドリードを出発し、多くの名所・遺産を見学した。余りにも多くの場所を見て回ったので、上手く纏められるかが心配である。

 旅行の計画を練っていただいた先生、コーディネーターには素晴らしい候補地をピックアップして頂き、また、夕食の店探しなどしていただいた方々にも、大変お世話になった。

 旅行中なんのトラブルもなく行程を消化できたことに対し、実施計画に基づく各地での段取り、手配を頂いた縁の下の力持ち、ユニ・ファースト株式会社様に感謝致しますと共に、この旅行記を完成させるにあたり、随分多くの間違いをご指摘頂き、校正頂いた先生、ありがとうございました。

最後にこの視察旅行への参画に許可頂いたケイコン㈱に御礼申し上げ、この素晴らしい思い出を脳裏にいつまでも焼き付けておきたいものだ。

 

                              長谷川光弘