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KCON WALKER

コンクリートの起源から構造物築造の変遷 Vol.03

こんにちは!

弊社の顧問執筆によるコンクリートについてのいろいろなお話が新しくスタートします。
おもしろいのでぜひご覧ください。

 

12、国内の構造物
 日本国内の石材や煉瓦造並びにコンクリート造構造物の歴史について触れる。
 幕末からの交易とともに灯台や船着場の整備から始まり輸送手段としての鉄道並びにトンネル建設が始まった。また、貿易が盛んになると伝染病も入り、コレラの流行が問題となり、浄水場が建設される運びとなった。当時の建造物に使用された材料は煉瓦が主流で、セメントは目地材として使用されていた。


13、灯台
日本で最初に点灯された灯台は神奈川県横須賀市三浦半島東端の観音崎に立つ観音崎灯台(三浦半島東端)で写真-25に示す。初代は明治2(1869)年2月11日(旧暦1月1日)完成・初点灯。二代目は大正12 (1923)年3月15日再建。同年9月1日関東地震により崩壊。三代目は関東大震災の後にコンクリート造白色八角形で再建され、現在まで使用されている。続いて2番目に点されたものは写真-26に示す伊王島灯台(長崎市の西南西約10km)で、明治3(1870)年に竣工し、点灯したが長崎原爆により破損し、昭和29(1954)年に四角形の灯台に修復され、平成15年9月に本来の六角形灯台に復元されている。伊王島灯台は、品川台場・観音崎(かんのんざき)・野島崎(のじまざき)などとともに建設された日本最初の近代的洋風灯台の一つである。


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写真-25 観音崎灯台


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写真-26 伊王島灯台


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写真-27伊王島灯台旧吏員退息所 


当初の灯台は鉄骨造であったが昭和29(1954)年に解体され、現在は土台基礎石を残すのみとなっている。
写真-27に示した灯台に付属する伊王島灯台旧吏員退息所(いおうじまとうだいきゅうりいんたいそくしょ)は俗に官舎とも呼ばれ、築135年の日本初無筋コンクリート造建築物である。設計者は灯台と同じ明治政府のお雇い外国人R・H・ブラントンで、明治10(1877)年に完成した。建物は明治初期の洋風建造物で、平屋建て桟瓦葺き、壁体は日本最古の無筋コンクリート造で、使用されたセメントは舶来品と思われるが、当時のセメントは貴重品で石灰などが混入された形跡がある。
写真-28の野島崎灯台は房総半島の最南端、太平洋に向かって突き出た岬に立ち、明治2(1869)年にフランス人技師ウェルニーによって設計され、関東大震災によって一度倒壊したが、大正14年(1925年)に再建され現在に至っている。この灯台は開国の歴史を飾る慶応2年にアメリカ、イギリス、フランス、オランダの四ヶ国と結んだ「江戸条約」によって建設を約束された八ヶ所の灯台の一つである。


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写真-28 野島崎灯台(南房総)


14、琵琶湖疏水
明治維新後の京都は遷都でさびれ、時の北垣国道京都府知事(写真-29)は、復興・活性化・近代化のために琵琶湖疏水を計画し、写真-30の田邉朔郎博士が京都の三大事業{水利事業(疏水・発電所)、水道事業(水道創設・配水管拡張)、道路拡築・市電建設}に携わり、近代化に尽力した。
 京都では明治23(1890)年、28(1895)年にコレラが大流行し、全市の井戸水試験を実施したところ、鴨川筋を除いた過半数が不良で、飲料水の確保が検討され始めた。
北垣国道{天保7 (1836)年~大正5 (1916)年}は但馬の生まれ。開拓権判事、元老院少書記官などを経て、京都府の第3代知事(就任期間:明治14(1881)年1月~明治25(1892)年7月)、後に京都市長を兼任した。北垣知事は当時の地方官のうちでも時代の流れに敏感で自民自治を重んじる性格であった。
 明治維新後の遷都でさびれた京都の復興、活性化、近代化に取り組み「琵琶湖疏水」を計画し完成させた。
在任11年の間、琵琶湖疎水建設、京都商工会議所創設など数々の実績をあげた。文字どおり骨を埋める覚悟で京都府の発展に力を尽くし、退任の送別会には1200人もの人が参加して別れを惜しんだ。のち内務次官、続いて北海道庁長官となり、小樽港の必要性を廣井勇から説かれ、築港を決断する。晩年は「静屋」と号して京都で自適生活を送った。
琵琶湖疏水は明治18(1885)年に着工され、明治23(1890)年に竣工、5年の歳月で通水されている。着工は田邉博士が23歳のときであった。また、写真-31に琵琶湖疏水風景の一部を示す。
 建設工事の様子は「田村宗立(たむらそうりゅう)」「河田小龍(かわだしょうりゅう)」の絵画により疏水の建設が過去に例の無い大掛かりな土木工事であったことを示している。
第一トンネル(2436m)の竪抗の深さは47mで、当初、人や資材、土砂、湧き水など全てを人力にて行なわれていたが、後にポンプや送風機、蒸気機関で動くエレベーターが取り付けられた。
レンガ、木材、石材はすべて直営にて製造、ダイナマイトやセメントは外国からの輸入を待たねばならなかった。
煉瓦を積むときに使用するセメントは輸入品で高価なものだったので、セメントを節約する意味で大きいサイズの煉瓦を製造して使った。当時の構造は煉瓦が主体で、セメントは目地材として使用されていたようだ。
田邉朔郎は琵琶湖疏水の建設を含む京都市三大事業に携わるなど、京都の近代化に尽力した。(写真-32に南禅寺水路閣を紹介する)

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写真29 北垣国道


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写真30 田邉朔郎像


 田邉が建設した赤煉瓦と花崗岩の西洋建築風水路閣を当時福沢諭吉は、山水の美、古社寺の典雅をきずつける、「いわゆる文明流に走りたる軽挙」と厳しく批判した。しかし、水路閣は今日も白砂青松の南禅寺境内にあって、むしろその典雅に一層の雅趣を添えこそすれ、決して環境破壊的存在とはなっていない。それのみか琵琶湖疏水のシンボル、京都市民が共有の財産として誇りとする土木構造物にもなっているのである。私はここに田邉朔郎の美学を感じる。(私の考える土木教育「廣井勇のテストピースを見る」の一節より、田村喜子(写真-33)、土木学会1991.3.vol 76 別冊増刊)
 現在も琵琶湖疏水は満々と水をたたえ、京都に一日240万m3の水を供給している。今日の疏水利用は水道が最も多く、発電、灌漑、防火、工業用と続く。


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写真-31 琵琶湖疏水


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写真-32 南禅寺水路


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写真-33 田村喜子


参考文献
コンクリート材料工法ハンドブック
セメント産業における非エネルギー起源二酸化炭素対策に関する調査
コンクリートの長期耐久性・小樽港100年耐久性試験に学ぶ
 土木学会・第一大戸川橋の概要335委員会成果報告書
 雑誌:コンクリート工学
 神戸市水道局パンフレット
 湊川隧道保存友の会パンフレット
 建設業界⑩⑪ volume 52、2003
 土木学会誌 1992年11月号 北の国からの大いなる遺産
 その他インターネットより