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KCON WALKER

IABSEシンポジウと中央ヨーロッパにおける橋梁・構造物視察ツアー Vol.1

、はじめに

平成27年9月13日~24日、IABSEシンポジウムと中央ヨーロッパにおける橋梁・構造物視察ツアーと題し、オーストリア~セルビア~クロアチア~スロベニア~イタリア~スイスの各都市の構造物並びに橋梁視察に参加する機会を得た。

 各都市や構造物並びに橋梁の歴史的背景については現地のガイドさんの説明を主とし、インターネットによる解説文章(アンダーライン部分)を掲載した。

また、解説の中に、私の聞き違いや勘違いによる記載があるかもしれない。また、英語、ドイツ語、フランス語による発音の違いから正確な言葉で記述されていない場合が多く、ご容赦頂きたい。そして疑問に感じられた方は申し訳ございませんが、ご自分でお調べ頂きたく存じます。

 オーストリアとの時差は7時間、日本時間・昼・12時はオーストリアでは朝の5時、オーストリアの昼・12時は日本時間19時である。

 オーストリアへの飛行ルートを写真1に示す。

写真Ⅰ オーストリアへの飛行ルート

 

地図Ⅲ 訪問した国々

 

、旅行行程

 

 

、橋梁・構造物視察と各都市の状況

 

A150913オーストリア ウィーン到着後車中より市内観光、後ホテルへ

ガイドは豊田さん、オーストリアの人口は857万人で、ウィーンに170万人が住む。多民族国家

オーストリア:中央ヨーロッパにおいて、650年間ハプスブルク家の帝国として君臨し、第一次世界大戦まではイギリス、ドイツ、フランス、ロシアとならぶ欧州五大国(列強)の一角を占めていた。

1918年、第一次世界大戦の敗戦と革命により1867年より続いたオーストリア=ハンガリー帝国が解体し、共和制となった。 

音楽を中心に文化大国としての歴史も有する。

 ブラームスは30歳から35年間ウィーンに住んだ。

 

写真-A-1はシュテファン大聖堂で、≪ウィキペディア≫による解説は下記に。

シュテファン大聖堂はオーストリアの首都ウィーンにあるゴシック様式の大聖堂で、ウィーン大司教区の司教座聖堂である。シュテファン寺院とも呼ばれる。

ウィーンのシンボルで、その観光名所のひとつである。この聖堂を含むリング(Ring)と呼ばれるウィーン歴史地区は2001年にユネスコの世界遺産に登録された。ハプスブルク家の歴代君主の墓所であるほか、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトとコンスタンツェ・ウェーバーの結婚式が行われ、また葬儀が行われた聖堂としても知られている。

オーストリア公ルドルフ4世の命によって建造されたこの聖堂は、1359年に65年がかりで南塔が完成。107メートルの高さを持ち、教会の塔としてはウルム大聖堂(161メートル)、ケルン大聖堂(157メートル)についで世界で3番目の高さがある。≪ウィキペディアより≫

 

 

B150914ウィーン ガイドはリツコさん

ラデツキー将軍:ボヘミア生まれ。ウィーンで学ぶ。

1785年にオーストリア軍に従軍。1788年以来、対トルコ戦争やナポレオン戦争など多くのオーストリアの戦争に参加し、1836年元帥、1849年から1857年までロンバルド=ヴェネト王国の総督を務めた。

ヨハン・シュトラウス1世が1848年に『ラデツキー行進曲』を作曲した。

 彼はナポレオン後に活躍し、制圧した将軍で、ラデツキー将軍は全勝であった。

昔は連隊毎に行進曲を持っており、音楽によりどこの連隊であるか直ぐに分かった。

 ラデツキーのイタリアでの逆転勝利は、オーストリアに自信を取り戻させた。

オーストリアは1914年6月、サラエボ事件を契機に第一次世界大戦が勃発し、オーストリアの国土は日本の4倍であったが、敗戦により日本の国土の1/4になった。すなわち世界大戦以前からすると1/16になったことになり、敗戦後、イギリス・アメリカ・ソ連・フランスが占領した。

 

テキスト ボックス: 写真-B-2ウィーン川に架かるトラス橋 ラデツキー橋はラデツキー行進曲で有名なラデツキー伯爵に因んで付けられた名称で、オットー・ワーグナーの設計により1884年から1918年にかけて築造された。写真B-1にその姿を示す。その頃日本では北垣国道の命により、平清盛や豊臣秀吉が成し得なかった琵琶湖疏水(1885~1890年)を田辺朔郎や島田道生その他関係者が悪戦苦闘していた頃である。

ラデツキー橋の築年は古く1884年から1918年で、交通量の多い通りであるから補修しつつ使っている。

 

 

オットー・ワーグナーは、オーストリアの建築家、都市計画家。「芸術は必要にのみ従う」と主張し、機能性・合理性を重視する近代建築の理念を表現した新しい造形をめざしたウィーン分離派に参加した。≪ウィキペディアより≫

 写真B-2はウィーン川に架かるトラス橋で、地下鉄4号線が川とクロスしている。ウィー川の護岸には窓があり、昔は地下通路であったらしい。築年は、やはり1884年から1918年と古く、設計は先ほどのラデツキー橋と同じ建築家オットー・ワーグナーだそうだ。

 写真B-3~7はドナウ川の一部に架かる斜張橋・カイザーミューレン橋・歩道橋、詳細については不明である。

 

 

 

日本でのPCより線は若戸大橋までで、それ以降の斜張橋、吊橋には平行線ケーブルが使用されている。

ドナウ川は川幅が広かったので写真B-8に示すように30~40年前に中ノ島が造られたらしい。

写真B-9はハンデルスカイ駅で、写真B-10~11に駅名と同じハンデルスカイ橋・鉄道橋が隣接する様子を示した。ドナウ川の一部に架かるトラス橋は1877に戦争で破壊され、1936年?に築造された。写真B-12に支障部分を示した。

 

ウィーンはぶどう酒の町である。マリーアントワネットの兄が造り酒屋に1年間で300日以内の営業許可を与えが、農繁期は忙しくて酒屋の商売ができなかったという。

伝統の「ホイリゲ」では、ウィーン産のワインだけが供され、門口に吊るされた松の枝の束が「営業中」の目印だとか。写真B-13はホイリゲの味わえる店である。

「ホイリゲ」という言葉は、本来こうした酒場そのものではなく、当年産のワインの新酒を意味し、伝統的に翌年の11月11日まで、ホイリゲと呼ばれる。

 

「ホイリゲ(heurige)」とは、オーストリア東部に見られるワイン酒場。ワインの作り酒屋が自家製ワインを売る、というのが建前なのでビールなどはなく、料理も簡単な家庭料理をセルフ・サービス方式で頼むところが多い。ワインは主に白ワインで、ジョッキ型のグラスに入っている。肉の燻製、ピクルス、黒パン、ゆで卵、生のトマトなどが料理として出される。

 

オーストリアのワインは「白」が7割を占めている。最近、「赤」が多くなってきたが、「白」の方が美味しいと言われている。

 フランスの「赤」は渋みがあり、「スパイゲルト」が渋みのないワインを考えた。

写真B-14~16はドナウ川や鉄道を横断する地下鉄&道路橋で、河川横断部上に地下鉄の駅が築造されていた。

オーストリアは1945年にソ連から永世中立国にならないかという話があった。ソ連が撤退する条件に、永世中立を守るのと無名戦士の墓を残すことを条件にした。オーストリアには軍隊があり、兵役の義務がある

ベートベンは22歳からウィーンに来て70件以上住居を変えた。写真B17-20に示すリボンの掲げられている家では「No.6田園」を書いた。

オーストリアワインは甘いものが収穫できるが、ウィーンには甘いものはないとのこと。高価なものでも35€くらいで、新酒は11月11日に解禁となる。

 教会税を1/10払うようになり、払えない人は肉体労働で返すことになる。11月11日にはその人達に酒を振る舞い慰労した。

テキスト ボックス: 写真B-19ベートベンの表札ウィーン市の各区が姉妹都市縁組を行っている。世田谷区と縁組しているウィーンの区がある。

 ウィーンは1860年頃城壁で囲まれていた。日本では安政の時代で、明治維新の前である。