KCON WALKERケイコン社員のはんなりブログ
文明開化後の京都とコンクリート
6月11日に開催されました第2回京都建設技術フェアでは、弊社顧問による講演会が行われましたのでどうぞ講演内容をご覧ください。
明治2年、東京遷都により公家・諸侯は勿論、京都の有力な商人も東へ移り、祭政一致を唱える政府により、京都は衰退の一途をたどった。
江戸末期の京都の人口は約40万人であったが、明治7年には22万7千人にまで減少した。
京の人口推移
幕末 :40万人
明治3年:33万人
明治7年:22万7千人
明治22年:28万4千人 上・下京区統合により市制が引かれた
明治35年:38万7千人
明治45年:49万5千人
明治35(1902)年には人口38万7千人になり、三大事業完成の明治45(1912)年には49万5千人に増加した。
槇村知事の近代化政策により明治3年には欧米の新技術を導入することを目的に舎密(せいみ)局が作られ、理化学の教育や研究を行った。大阪舎密局は後の三高・京大へと繋がる。明治4年には農工商業奨励のために勧業場が開かれ、明治9年には梅津製紙場が創業した。
明治14年、地方行政に豊かな経験を持った北垣国道が第3代京都府知事に就任した。北垣知事は但馬の出身で、高知県令、一時期、徳島県令も兼務され、その後、衰退する京都の復興を明治政府から託された。
太政大臣・三条実美(さねとみ)や右大臣・岩倉具視らも心を痛め、北垣知事に京都の復興を期待した。
京都府は日本海側との交通を重視し、明治14年11月から京都―宮津間の道路整備に着工しており、明治17年に亀岡の王子橋を田邉朔郎が設計したと伝えられている。
王子橋
北垣知事は明治16年に水力発電に触れている。復興案で思いつくのは平清盛や豊臣秀吉がなしえなかった夢の運河・琵琶湖疏水であった。
一人の力強い指導者と二人の技術者により琵琶湖疏水は作り上げられたと言われており、その指導者とは北垣知事であり、二人の技術者とは測量士島田道生と田邉朔郎技師である。
北垣知事は大津~京都間の測量を島田道生に命じ、世紀の大事業を弱冠23歳の若い才能と情熱ある若者・田邉朔郎に任せることにした。
島田道生は高知県に努めていたが、明治15年6月から測量技師として京都府に努めた。島田はそれ以前から琵琶湖疏水基本構想の際の測量図面の作成にあたった。特に明治14年から16年にかけて大津市と京都三条大橋付近に基線を設けて三角測量を行った。
内務省のお雇い外国人デ・レーケが「運河路線地図は、等高線を用いていて、高く評価できる」と語らせたほどの出来ばえであった。
田邉朔郎博士の「石斎随筆」には明治14年に卒業論文の課題を求めて京都を訪れた時の様子について、「わらじを履いて東海道を10日もかけて歩いてきました」などと紹介されている。
明治16年、工部大学校の卒業論文に琵琶湖疏水を取り上げた田邉朔郎のことを工部大学・大島校長の目に留まり、それが北垣知事の耳に届き、明治16年5月、京都府に招かれることになった。
明治17年2月29日、この遠大なる計画、すなわち、長大トンネル(長等山トンネル2436m)が堅固な地質から構成されていることからデ・レーケに強く反対された。しかし、北垣知事の強い使命感、田邉の高い技術と柔軟な頭脳、島田の正確な測量技術、並びに綿密な計画により明治18年6月着手することになった。
総工費60万円の予算であったが、最終的に125万円となり、京都の年間予算50~60万円を大きく上回り、このうち、25万円は京都市民が負担し、市民あげての工事であった。
測量機器はトランシット3台とレベル5台などが購入され、特に、長等山トンネルの誤差は高低差1.2mm、中心差7mmと大変な精度であった。
当時、外国人技術者で田邉朔郎の師でもあったダイアー(25歳)の月給は660円で、伊藤博文の給料は500円であった。
工事の様子は田村宗立(明治14年より京都府画学校西宗の教員)・ 河田小龍(明治21年高知より北垣知事に招かれる) により描かれ、大変な難工事であったことが表現されている。
南禅寺水路閣について、福沢諭吉は「いわゆる文明流に走りたる軽挙」と厳しく批判した。しかし、田村善子は私の考える土木教育「廣井勇のテストピースを見る・土木学会1991.3.vol 76 別冊増刊」の一節に「水路閣は今日も白砂青松の南禅寺境内にあって、むしろその典雅に一層の雅趣を添え、決して環境破壊的存在とはなっていない」と述べている。
南禅寺水路閣
「琵琶湖疏水50年の回顧」と題し、疏水記念館には田邉朔郎博士の肉声で講演されている。その一部を紹介すると、当時のセメントは半分が外国からの輸入品で、非常に高価なものであった。レンガも木材も作らないと無い状態で、セメントの使用を少なくするためにレンガを大きくしたことも聞く。
トンネル内の明かりはカンテラで、薄暗く、ススだらけであった。監督としてたまにしか入坑しない田邉のタンも黒く、半年くらいして風邪をひくと黒いものが混じっていた。四六時中入坑している坑夫のタンは常に黒く、黒いものと思っていた。
明治23年4月、大変な苦労の末、琵琶湖疏水は大津から鴨川落合の11.1kmが完成した。長等山トンネルは出水が多く、大変苦労したと田邉博士は回顧されていて、完成の日には両陛下をお招きし、山鉾が出て、大文字が灯されたという。
この事業は日本人が中心になって建設された最初の近代土木事業であった。それ以前に日本人が作り上げた大規模工事は明治13年6月に完成した逢坂山トンネルがあげられる。日本人が中心となって建設されたとされるが、設計管理は全て外国人技術者に頼ったものであった。
工事の途中、明治21年に田邉技師と高木文平調査委員がアメリカ・コロラド州のアスペン銀鉱山水力発電所を視察し、水力の利用を発電に変更することにした。また、両名はボストンで路面電車を見た。
本邦最初鉄筋混凝土
第一期蹴上発電所
京都電気鉄道(株)"
明治36年築第11号橋
第11号橋現在の姿
第11号橋下面につららが見える
明治21年の視察から早や3年の明治24年、我国初の営業用水力発電所が蹴上に建設され、同年、発電を開始した。しかし、毎月1日と15日は水路の藻刈りの為に発電が休止となり、電車も運休となった。
明治26年に西陣織をはじめとする伝統産業は近代化へと導かれ、明治28年3月10日にインクラインが完成し、明治28年4月1日・京都~伏見間で京都電気鉄道㈱による日本初の路面電車が営業運転を開始している。開業前の試運転車には高木文平社長も乗車していたようだ。
≪参考≫ (1890年に上野公園で第2回内国勧業博覧会が催されたとき、藤岡市助がアメリカから持ち帰ったスプレーグ・システムによる路面電車2両を、東京電燈が公園内に450mの軌道を敷いて公開運転したのが日本の電車事はじめとなった。そしてその5年後の1895年には、京都市において京都電気鉄道が日本初の電車営業運転を開始した。さらに、名古屋電気鉄道、大師電気鉄道、小田原電気鉄道、豊州電気鉄道、江之島電気鉄道、宮川電気と続き、東京市(1943年に東京都となる)でも民営会社によって路面電車が開業し(後に市営化)、1903年には大阪市で初めて市直営の電車(大阪市電)が運行を開始した)
明治28年には井戸の一斉調査が行われ、鴨川沿線を除く井戸の半数は飲料不適であった。
明治30年代に入ると、第一疏水だけでは電力需要等の増大に対応できなくなり、また、飲料水確保のために西郷市長が京都の三大事業(第二疏水事業・水道事業・市電開通および幹線道路拡幅)を計画し、第二疏水は明治41年10月に着工し、明治45年3月に完成、日本初の急速濾過式浄水場は4月1日から給水が開始された。京都三大事業の完成と共に今日の京都の基盤がほぼ出来上がり、この頃、京都の人口は50万人に増加していた。
≪参考≫
(交易と共にコレラが明治10年ころに入ってきた。明治20年ころから猛威を振るい、浄水場建設が急がれた。神戸では、当時「水は井戸を掘れば出てくる、タダだ」という考え方であり、佐野藤次郎指導により明治33(1900)年に水道専用ダムが造られるまで計画から15年の歳月を要している)
構造物としてセメントが使用されたのは、日ノ岡第11号橋で、メラン構造のこの橋は試験的に築造されたものであり、明治36年7月に完成している。しかし、長く忘れられた存在で、「そう云うたら、あれはな、日本で最初の鉄筋コンクリートの橋やったんや」という田邉博士の言葉から築29年後の昭和7年、「本邦最初鉄筋混凝土」の石碑が建てられた。
当時、第11号橋築造時には専用の鉄筋がなかったので、トロッコのレールを代用したとされている。また、この橋は国産セメントの試験用に築造されたと聞く。この橋梁床板下面には遊離石灰によるつららが見える。築110年経過しているが、メンテナンスフリーの状態のようだ。(国産セメントは明治8年深川にて生産開始)
翌年の明治37年に築造された第10号橋・山の谷橋(黒岩橋)こそ日本最初の本格的な鉄筋コンクリート橋なのであると「琵琶湖疏水の100年叙述編」P.562に記されている。
第10号橋
明治36年に築造された鉄筋コンクリート橋は長崎の本河内低部ダム水路橋や神戸の若狭橋がある。
また、同時代に築造されたRC橋として、明治38年・仏光寺橋・姉小路橋、明治40年・六軒橋などが記録されている。
鞍馬街道は古くから鞍馬神社や貴船神社の参道として存在したもので、鉄筋コンクリート橋の市原橋(明治45(1912)年築造)や鉄骨コンクリートワーレントラス橋の二ノ瀬橋(大正3(1912)年築造)がある。これらは京都と丹波や若狭を結ぶ街道でもあった。
市原橋
二ノ瀬橋
明治41年より始まった京都三大事業により、市道の拡張および路面電車設置のために四条および七条大橋の架け替えが必要になり、鉄筋コンクリートアーチ橋が採用され、それぞれ大正2年3月と4月に竣工したが、四条大橋は昭和10年6月28日の大出水に際し、川幅狭小の為に障害物となり、付近一帯の大浸水の原因となったので架け替えられた。
七条大橋
建築関係では煉瓦造が主流で、同志社大学には重要文化財が5棟存在し、彰栄館が明治17年、礼拝堂が明治19年と続く。明治42年には、伊藤博文が「この館に遊ばば、其の楽しみやけだし長(とこし)へなり」と詠い命名された長楽館がある。
明治24年濃尾地震が発生、コンクリート構造物の耐震性が確認されるが、まだまだ煉瓦造が主流の時代であった。関東大震災後にはコンクリート構造物が耐震性に優れていることがわかり、コンクリートが多く使用されるようになった。
また、この時代の建築物での鉄筋コンクリート構造の評価は定まっておらず、安全性が疑問視され、壁はレンガ構造とし、床板はフランスのモニエが発明したアーチスラブを採用したものが多いようだ。
明治45年には旧蹴上第二発電所が煉瓦造・鉄筋コンクリート造で建築されている。
大正6年には田邉朔郎博士の書斎として土蔵風の鉄筋コンクリート造2階建ての「百石斎」が田邉自らの設計で建築された。
また、大正11年には京都大学工学部建築学教室本館が鉄筋2階建てで築造されている。
大正12年には旧京都中央電話局上分局が鉄筋コンクリート3階建てで建築され、現存するRC造電話局舎の中で最も古い。
参考に、東京丸の内の丸の内ビルは大正12年の築造で、当初鉄骨造であったが、関東大震災前に小さな地震に遭遇し、鉄骨造からSRCに構造変更した。完成から7か月後に関東大震災の洗礼を受けるが、震災から免れた。
同志社礼拝堂
長楽館
旧蹴上第二発電所
京都大学建築学教室本館
旧京都中央電話局上分局
また、大正14年には京都大学楽友会館、大正15年にはレストラン「菊水」や東華采館が建築されている。
楽友会館
レストラン菊水
昭和4(1929)年には平安神宮の大鳥居が昭和天皇御大礼の記念行事として完成し、当時の施工仕様書が現存している。
大鳥居は鉄筋コンクリート造一部鉄骨造鉄網モルタル塗りの明神鳥居で、登録有形文化財(建造物)である。
大鳥居築造に関する施工仕様書(平安神宮大鳥居保存修理工事報告書)より抜粋
基礎工事
・敷コンクリートは調合1:3:6のものを打立て、鉄筋を配置せり。
・鉄筋の曲げ方はバーベンダーを使用し、常温において徐々に曲げ、フックはその直径の6倍以上。
・各継ぎ手の長さ、鉄筋は長尺の物を用い、継手の重ね合わせは直径の30倍以上とし、コンクリート注入に際してモルタルが完全に充填するよう考慮して継合わせる。
・セメントは農商務省ポートランドセメント試験規格に合格したものとする。
・コンクリートの調合は
地中基礎敷コンクリート 1:3:6
地中鉄筋コンクリート 1:2.5:5
その他の鉄筋コンクリート 1:2:4
・水量は係員の指揮に従い、混合機により十分に練り混ぜた後、型枠内に注入し、空隙を残さないように小棒にて搗き混ぜ、各鉄筋の周囲および仮枠の隅々に至るまで充填するよう搗きこみ、鉄筋の混雑する部分は特に注意して多量のモルタルを掻き込みたり。
・コンクリートの打込み時間は練り混ぜ後15分間以内に移送し、それ以上経過したるものは使用せざること。莚(むしろ)で被い、打ち水を行い、打込み後7日以上経て取り除く事。
・仮枠はコンクリート打込み後3週間以上を経て取り除くこと。
内容は現在の仕様とほぼ同じで、特に養生の大切さを謳っている。そして当時は混和剤がなく、振動機もなかった。もっぱら突き棒で突くしかなく、練り混ぜて時間が経過するとスランプが低下するので、練り混ぜ後15分以内に移送するとしたのでしょう。
昭和6(1931)年3月31日に新京阪(現阪急)西院~大宮間の地下線路部分が開通した。しかし、東京では大正4年に郵便貨物専用線が地下化されている。
明治36年・鉄筋コンクリートとして第11号橋建設以来、コンクリート技術の進歩は目覚ましいものが伺える。
当時のセメント粒子は粗く、また、セメントの単位体積当たりの比表面積も小さいことからコンクリートの強度発現が遅く、水セメント比を小さくしなければ所定の強度を得られず、扱いにくいものであった。
北垣国道知事はその後、北海道庁長官に就かれ、北海道の鉄道整備や広井勇博士の築造された函館漁港の改築、並びに小樽北防波堤の築造計画の許可に尽力された。中央政界で活躍された後、余生は京都にて静屋(せいや)と号し、過ごされた。
田邉朔郎博士はその後も日本の土木業界にご尽力され、関門トンネル開通の4日前にご逝去されたと聞く。しかし、今でも吉田山の南東に位置する「百石斎」の書斎にこもり、研究を続けられ、目立たない存在で時々京都の方向を眺め、我々を気に掛けて頂いている様子が伺える。琵琶湖疏水築造にご尽力いただいた多くの方々に感謝申し上げたい。
平安神宮大鳥居
現阪急 西院~大宮間地下
百石斎
田邉朔郎像