KCON WALKERケイコン社員のはんなりブログ
コンクリートの起源から構造物築造の変遷 Vol.08
こんにちは!
弊社の顧問執筆によるコンクリートについてのいろいろなお話が新しくスタートします。
おもしろいのでぜひご覧ください。
写真-74平安神宮大鳥居
25、平安神宮大鳥居
写真-74の大鳥居は鉄筋コンクリート造一部鉄骨造鉄網モルタル塗りの明神鳥居で、昭和天皇御大礼の記念行事として昭和4(1929)年に完成した。
(登録有形文化財(建造物)平安神宮大鳥居保存修理工事報告書)より大鳥居築造に関する施工仕様書を拝見し、コンクリートに関するものを示す。基礎工事敷コンクリートは調合1:3:6のものを打立て、鉄筋を配置せり。
鉄筋の曲げ方はバーベンダーを使用し、常温において徐々に曲げ、フックはその直径の6倍以上とする。
各継ぎ手の長さ、鉄筋は長尺の物を用い、継手の重ね合わせは直径の30倍以上とし、コンクリート注入に際してモルタルが完全に充填するよう考慮して継合わせる。
セメントは農商務省ポートランドセメント試験規格に合格したものとする。
コンクリートの調合は
地中基礎敷コンクリート 1:3:6
地中鉄筋コンクリート 1:2.5:5
その他の鉄筋コンクリート 1:2:4 の容積配合となっており、水量は係員の指揮に従い、混合機により十分に練り混ぜた後、型枠内に注入し、空隙を残さないように小棒にて搗き混ぜ、各鉄筋の周囲および仮枠の隅々に至るまで充填するよう搗きこみ、鉄筋の混雑する部分は特に注意して多量のモルタルを掻き込みたり。コンクリートの打込み時間は練り混ぜ後15分間以内に移送し、それ以上経過したるものは使用せざること。
莚(むしろ)で被い、打ち水を行い、打込み後7日以上経て取り除く事。仮枠はコンクリート打込み後3週間以上を経て取り除くこととされ、厳密な施工管理のもと、現在でもコンクリートの劣化はなく、その勇壮な姿は健在である。
コンクリート打設後の養生の大切さが伺える。施工は大林組と記されていた。
26、黒崎砲台
日本の近代史の中で植民地拡大の時代、日本が先進国の仲間入りの手本としたのが英国で、軍事拡大路線を進んだ。しかし、多大な経費の支出は国民生活にも大きな影響を与える結果となった。
軍縮条約により廃艦となった軍艦の主砲を陸揚げして利用したのが黒崎砲台の主砲である。
太平洋戦争まで朝鮮半島や満州への行路の確保とロシア軍に対するものとして対馬や壱岐に砲台が設けられた。しかし、黒崎砲台は「打たずの砲台」であった。
写真-75の黒崎砲台は昭和3年8月25日に着工、昭和8年2月14日竣工で、戦艦土佐の主砲・砲塔45口径、40cm砲1基2門が設置された。砲身長18.84m、重量102 t、弾丸全長1.428m、重さ1.0 t、最大射程距離30.3km (戦艦大和の主砲は45口径46cm、砲身長20.7m)
戦後、砲台は米軍により主砲2門が撤去された状態で残っており、砲台入口には戦艦大和と戦艦土佐の弾丸の模型が設置してある。(写真-76~78:砲台入り口、内部、砲弾の模型)
この黒崎砲台を語り継いでいる近くの茶店のご主人の協力を得て情報収集した。構内は写真のように鉄筋がむき出しになっており、当時を残すコンクリートの型枠面は一部分を残すのみで、鉄筋泥棒がコンクリートを斫り表面近くの鉄筋を盗んでいったとのことであった。
この砲台建設に関する詳細な資料は見つかっていないが、粗骨材の玉石は他の海から持ってきたらしい、細骨材は近くの浜辺のものではないか。練混ぜ水も海水ではなかったか。何しろ軍事機密ではあるが、当時を知る老人から聞いた話とのことであった。
写真-79に示す鉄筋の発せい(錆)状態を見るとコンクリート中に埋設されている部分は発せい(錆)によるコンクリートのひび割れはないが、空気にさらされている部分は木炭のような状態になっていた。
長年の乾燥・湿潤繰返しの結果と、塩分の影響で発せい(錆)したのではないか。しかし、海砂を使用しても緻密な状態であれば鉄筋は発せい(錆)しないということになるのかな、しかし、詳しいことは解らない。
写真-75 壱岐市郷ノ浦町の黒崎砲台
写真-76 黒崎砲台跡入口
写真-77 戦艦大和と土佐の主砲
写真-78 砲台地下内部
写真-79 地下の鉄筋発せい(錆)
参考文献
コンクリート材料工法ハンドブック
セメント産業における非エネルギー起源二酸化炭素対策に関する調査
コンクリートの長期耐久性・小樽港100年耐久性試験に学ぶ
土木学会・第一大戸川橋の概要335委員会成果報告書
雑誌:コンクリート工学
神戸市水道局パンフレット
湊川隧道保存友の会パンフレット
建設業界⑩⑪ volume 52、2003
土木学会誌 1992年11月号 北の国からの大いなる遺産
その他インターネットより