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KCON WALKER

IABSEシンポジウムと中央ヨーロッパにおける橋梁・構造物視察ツアー Vol.9

J・150922 チューリッヒ3日目 ガイドさんはさちこミラーさん。

 本日はスイスの東側に位置するサルギナドーベル橋、スンニベルク橋、ランドヴァッサー橋の見学に出かける。チーリッヒ中央駅に顧問をお迎えし、一路東へ。

 写真J-1~3はチューリッヒ中央駅の様子である。

写真J-4~7は切り立った高い山々の景色を眺めながら、のどかな牧草地帯を通り抜けて走る。

 

 地図J-1は各橋梁の位置を示している。スイス連邦の東の端に位置しており、あまり旅行客が大勢でゆくところでもなさそうである。サイクリングやドライブを楽しむ人達と何組か出会った。道路幅員の関係で大型バスは通行できないところもしばしばであった。ベルニナ急行・アルベラ線に乗車して巡る人たちは多いが、橋梁下部を視察にゆく旅も珍しく、日本人もここまで来る人は珍しいとのこと、ガイドさんより。

 

サルギナドーベル橋 1930年築。

ロベール・マイヤール(仏: Robert Maillart187226 – 194045日)は、スイスの構造家。ベルン生まれ。鉄筋コンクリートを使用した近代的なアーチ橋の設計で知られる。設計した橋は、薄いコンクリート床板と箱桁断面のアーチ構造から構成されており、20世紀のコンクリート構造の基本のひとつを確立している。

2歳の時に父親を失い、一家は窮乏生活に陥っている。その中でロベールは1885年から1889年まで、ベルン高等学校に通い、数学、特に幾何学と製図、絵画に秀でたが、語学や歴史は苦手だったという。

17歳の時、チューリッヒにあるスイス連邦工科大学(ETH)の入学資格試験に合格したが、入学年齢が法律により18歳以上と決められていたため、1年間ジュネーヴ市立時計製作専門学校に通う。

1930年、グリソン州シールズに架かるザルギナトーベル橋は、山道が深い谷をこえる極めて絶妙のバランスを保った造形を有する3ヒンジRCアーチの橋梁として名高い。それまでの伝統的な石造アーチ構造の模倣から解放された。この構造デザインは今日でも構造開発のモデルになっている。

≪ウィキペディアより≫

1930年といえば日本では昭和5年、1929年のニューヨーク株式市場の大暴落を契機に世界恐慌に発展し、日本経済も深刻で、昭和恐慌と呼ばれた時代である。

関東大震災後の大都市ではサラリーマンが進出する中、女子が職場進出するようになった。大正15(1926)年の内務省調査によると彼女らの平均給与はタイピストが40円、電話交換手が35円、一般事務職は30円前後で、男性比2/3程であったとか。

≪日本史ハンドブック 小澤正晴著より≫

テキスト ボックス: 写真J-8ローベル・マイヤール博士写真J-8にこの橋梁を設計されたローベル・マイヤール博士を紹介し、写真J-9~15にはサルギナドーベル橋の各部分の写真を示した。写真J-16~18には仮設支保工の組立状態を、写真J-19には橋梁寸法図を示し、さらに写真J-20には橋梁側面図を示した。

 

全体的に薄いコンクリート部材の組み合わせで設計されている。例えば柱のフランジ厚は12cmと大変薄い。日本で、1937(S12)年頃のセメント比表面積は約1800cm2/gと言われており、強度発現が遅く、また、W/Cもある程度小さくしないと目標とする強度が得られない。当然鉄筋も挿入されている。どのように施工されたのか、近年、コンクリート表面を化粧された様子で、直接コンクリートの肌を拝見することはできなかったが、素晴らしいコンクリートであった。

また、写真J-14・15に示した高欄コンクリートには小さなひび割れが発生しているくらいで、85年経過しているコンクリート構造物とは思えなかった。

両支障部は岩盤に岩着されている。

 この付近には火山がなく、山々は地盤が褶曲してできている。岩の種類としては主に砂岩系であるが、チャートが主体となっているものや石英が混入しているものがあると。

 


 

 

スンニベルグブリッケ(エキストラドーズド構造)

 1996~1998築造2005年12月9日開通

 支間59+128+140+134+63m=524m H=77.1m

 写真J-21~24にスンニベルグ橋を示し、図J-1に桁橋・エクストラドーズド

橋・斜張橋の比較を示した。

エクストラドーズド橋の意義

テキスト ボックス: 図J-2 橋梁構造比較 1988年Mathivatによって提唱されたエクストラドーズド橋は、斜張橋と桁橋の間を補う新しい構造形式である(図J-2橋梁構造比較参照)。 エクストラドーズト橋の概念がでてくるまでは、斜張橋と桁橋の間の構造は設計されることがなかった。 Mathivatによれば、エクストラドーズト橋の最適桁高は、L/30~L/35,主塔高はL/15(Lは支間長)となっている。 この主桁高は斜張橋よりも高く、主塔高は、斜張橋で今まで最適とされてきたものに比べ半分の値である。 現在のところエクストラドーズド橋の施工は日本が一番多く、最初の適用は、1994年に完成した小田原ブルーウェイブリッジ(写真J-25)である(写真J-25小田原ブルーウエイ橋

エクストラドーズド橋の大きな特徴は、斜張橋に比べ活荷重に対してより主桁が抵抗するため、斜材の応力変動が小さいということである。このことをうけて、Mathivatは斜材の安全率を一般の外ケーブルと同じ167とすることを提言している.これに対して、斜張橋の斜材の安全率は2.5であるので、エクストラドーズド橋は、斜材に用いたPC鋼材の能力を有効に使うことができる構造といえる。≪春日昭夫氏著・三井住友建設㈱論文より≫

スンニベルグブリッケは西湘バイパス・小田原ブルーウエイ(1994年築)を例に架橋された。


 

 

小田原ブルーウェイブリッジ

本橋の形式は、エクストラドーズド橋が3径間連続しており、橋長は270mである。

架橋にあたって、当初は通常の桁橋・斜張橋も比較検討された。しかし、小田原漁港の航路限界から、桁下面の高さは20m以上にするという制限があったため、通常の桁橋は下部工の工費の増大を招くと判断され、斜張橋についても支間が短いことから経済性に難点があると判断された。これらの理由から、エクストラドーズド橋が採用されたもので、これは世界初の採用例とされている。1994年に完成した。

 実際は、エクストラドーズド橋に決定されるまえに、斜材をコンクリートで覆った斜版橋(当時はスイスのガンター橋があった)と呼ばれるタイプが検討された。上部工の重量低減という目的から、そのころはまだほとんど名前が知られていなかったエクストラドーズド橋という形式に変更され世界初の実橋となったのである。外見的にはコンクリートで覆うか覆わないかの違いだけであるが、この技術者たちの思い切った決断が、その後の大きな成果となることを当時誰が想像できたであろう。

 

小田原ブルーウェイブリッジの直後に、中央支間長180mの衝原橋と蟹沢大橋が建設を開始し、さらにわずか3年後に、中央支間長275mの揖斐川・木曽川橋へとつながっていく。これらの橋はそれまでの同規模の橋梁に比べコストダウンを図ることができており、それまでは斜張橋の守備範囲だった支間頼域は、完全といっていいほどエクストラドーズド橋にとって変わられている。

 スイスのガンター橋(写真J-26)は8径間連続PC斜張橋 幅員10m、橋脚高さ150mS字線形、

橋長678m(35+50+127+174+127+80+50+35m)

テキスト ボックス: 写真J-26 ガンター橋インターネットよりシンプロン峠道、1980年築、 優れた造形力 秀麗なデザイン、ユニークなデザインの秀作である。

≪インターネットより≫


 

 

 

ランドバッケー橋 鉄道橋(1902年築 ベルニナ急行・アルブラ線に架る橋)

 写真J-27~30にランドバッケー橋を示し、写真J-31は支保工組み立て時に使用したチャンネル材が残っている。写真J-32は橋梁基礎である。基礎部横に立つ人間の大きさからすると大変大きい。

 1996~1998年に補修工事をされ、その様子を写真J-33~35に示した。

1902年というと、日本では日露戦争前で、東海道線の建設が急ピッチで進み1889年7月1日に全線が開通した。また、港湾・堤防等の建設が推進されていた頃である。

 

K・150917~150922

 写真k-2~4はスイス連邦・ジュネーブにあるハンス ・ ウイルスドルフ橋である。斬新なデザインで、難しい応力計算をされたのであろう。また、どのように施工されたのか工程が浮かんでこない。

マドリード・マンサナレス川上流にある同じようなデザインの橋が写真K-5・6・7に示すアルガンスエラ歩道橋である。歩道と自転車道が区別され、斬新なデザインであり、見た感じがハンス・ウイルスドルフ橋に似ている。

 

 

、おわりに

 ウィーンを出発し、ベオグラード(セルビア)・ザグレブ(クロアチア)・リュブナリャ(スロベニア)と今まで足を踏み入れたことのない国々を訪問させて頂いた。また、多くの橋梁を拝見でき、旅行記のページ数も多くなった。

 旅行を計画して頂いた先生、コーディネーター様には素晴らしい候補地をピックアップして頂き、また、ホテルでの手続き等ツアーガイドさんのような事もして頂いた幹事長やY様に大変お世話になった。

 旅行工程がスムーズに進行したのは、実施計画に基づく各地での段取り、並びに手配等をして頂いた縁の下の力持ち、旅行社の担当者様に感謝申し上げる。

そして、最後にこの興味深い視察旅行への参画に許可頂いたケイコン㈱に御礼申し上げ、さらに、ご一緒頂いた皆様に感謝申し上げる。

長谷川光弘