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KCON WALKER

IABSEシンポジウムと中央ヨーロッパにおける橋梁・構造物視察ツアー Vol.2

ユーゴスラビア 写真B-20に旧ユーゴスラビアの地図を示す。

国名として「ユーゴスラビア」を名乗っていたのは1929年から2003年までの期間であるが、実質的な枠組みとしては1918年に建国されたセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国に始まり、2006年に解体されたセルビア・モンテネグロまでを系譜とする。また、その間に国名や国家体制、国土の領域についてはいくつかの変遷が存在する。

なお、ユーゴスラビアの名は解体後の現在においても政治的事情により、構成国のひとつであったマケドニア共和国の国際連合等における公式呼称である「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」として残存している。

 

ユーゴスラビアの首都はベオグラード。1918年にセルビア王国を主体としたセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国として成立した。1929年ユーゴスラビア王国に改名された。1945年からは社会主義体勢が確立され、ユーゴスラビア連邦人民共和国と改称された。1991年からのユーゴスラビア紛争により解体され、その後も連邦に留まったセルビア共和国とモンテネグロ共和国により1992年にユーゴスラビア連邦共和国が結成されたものの、2003年には緩やかな国家連合に移行し、国名をセルビア・モンテネグロに改称したため、ユーゴスラビアの名を冠する国家は無くなった。2006年にモンテネグロが独立して国家連合も解消され、完全消滅となった。

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の6つの構成共和国はそれぞれ独立し、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアとなっている。≪ウィキペディアより≫

 

ベルヴェデーレ宮殿は、オーストリアのウィーンにあるバロック建築の宮殿。

もともとハプスブルク家に仕えたプリンツ・オイゲンが、当時の代表的な建築家であるヨーハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントに、夏の離宮として造らせたものである。1714から1716年にかけて下宮、1720から1723年にかけて上宮が建設された。プリンツ・オイゲンの死後1752年に、ハプスブルク家のマリー・アントワネットの母親、マリア・テレジアに売却された。現在はオーストリア絵画館になっている。オーストリアで2番目に大きな美術館である。

オーストリアの20セントユーロ硬貨の裏面には、門越しに見た宮殿が彫られている。また、この宮殿の構内に作曲家ブルックナーが晩年を過ごした邸宅がある。≪ウィキペディアより≫

 

写真B-21にベルヴェデーレ宮殿を示す。マリーアントワネットの母親・マリアテレシアが召使1000人以上連れてきた。

ハプスブルク家が使用したのは1階と2階で、鏡は権力の象徴とされた。本来であれば600m継ぎ足したかったが、トルコ軍との戦いに資金を要し、出来なかったとか。

ベルヴェデーレ宮殿の中央部分43m×10mは天井高さが10mで、舞踏会が開かれた。2階はハプスブルグ家の住居で、3階以上はホテル。1室180m2、€2000だそうだ。写真B-22・23・24はベルヴェデーレ宮殿の裏庭で、写真B-25に裏庭からウィーンの町が見える状態を示す。この光景は250年前に描かれた絵画と変わらないとの事。


プリンツ・オイゲンがトルコ軍との戦いの後に宮殿を建てた。しかし、プリンツ・オイゲンが73歳で亡くなり、子供がいなかったので56歳の姪が遺産を受けた。このような宮殿を8つも貰い、38歳の男性と結婚し毎日パーティを開いたので、資金がなくなり、ハプスブルグ家がこれを買い取った。ベルヴェデーレとは美しいという意味がある。

ウィーンには高射砲台が数箇所あり、B・25が低空で飛来し、高射砲台を爆撃するところ1秒早く落下させ、オペラ座に命中したとか。

 現在のオペラ座は破壊された部分が判らないくらいに修復されている。

シェーンブルン宮殿の全景を展開した写真を写真B-27に示し、写真B-28に宮殿を示した。

ガイドさんによると、写真B-29丘の上に立つ凱旋門上の鷲(写真B-30)が本来のものとしているが、写真-31に示す(双頭の鷲)はスペイン・トレド旧市街を流れるタホ川に架るサンマルチン橋の塔上のもので、ハプスブルグ家の紋章が彫刻されている。双頭の鷲はドイツでのハプスブルグ家の象徴とされたが、双方とも当家の象徴としたと言われている。ガイドさんより。

マリアテレシアは1767年より気象観測を開始し、シェーンブルン宮殿の庭には木陰を多くして涼しい環境を作った。

 オット・ワグナーは土木にも建築にも手掛けた人だが、宮殿に住む人の衣装までデザインしたと言われている。

シェーンブルン宮殿は、オーストリアの首都ウィーンにある宮殿。ハプスブルク王朝の歴代君主が主に離宮として使用した。 現在、同宮殿と庭園群は世界遺産に登録されている。

建物は、あらゆる部屋を合計すると1,441室あり、宮殿の両翼の端から端まで180mあり、正面右側翼には宮廷劇場がある。また、広いフランス式庭園を挟んで宮殿に向かい合う丘の上にはグロリエッテという対プロイセン戦の勝利と戦没者の慰霊の為に立てたギリシャ建築の記念碑(未完成)があり、ここからは周囲が一望できる。ウィキペディア

少年合唱団・左端に日本の少年がいた。日本人かい?・「はい」。写真B-32