お使いのブラウザはサポート対象外です。推奨のブラウザをご利用ください。

KCON WALKER

スペイン・南フランスの旅 vol5

9月5日夕方マラガに着く マラガ宿伯

 マラガの人口は56万人で、スペイン第6番目の規模を誇る街である。

 

⑤ 9月6日 マラガの早朝

 早朝6:30に市内観光に出発。ヒブラルファロ城を目指した。距離からして数キロ、周囲は暗かったので徒歩にて向かったが、道を間違えタクシーに乗車。当地は坂道と曲がりくねった道で、結果的にはタクシーに乗車して正解。しかし、到着時点でも周囲は暗く、海岸・砂浜に向かった。薄暗い中、海岸を散策の後、もう一度ヒブラルファロ城に向う。

展望台からは大型客船が入港し、マラゲータ闘牛場が美しかった。本日の出発は9:00なので急いでホテルに戻り朝食についた。

⑥ ミハスに向け出発

ミハス (Mijas)は、スペイン、アンダルシア州、マラガ県の都市。コスタ・デル・ソルにあり、白い村の中心都市として、国内で有数の観光地となっている。経済は主に観光によって成り立っている。

ミハスの標高は428mで、ロンダにゆく中間地点にある。お祭りの準備中で、ロバ、馬車がいて、これから街を美しく飾るらしい。

この地は1960年まで漁師が住んでいたが観光地や別荘として開発された。急斜面に作られた旧市街は1884年に山崩れがあり、災害の標識がある所まで倒木や土砂が溜まったそうだ。

街の家々には植木鉢が白い壁にかけられていて、市から植木鉢の色は青色と指定されているらしい。

1510年に作られた噴水の近くに劇場があり、フィラメンコショウが開催される。また、その噴水の近くに1900年に造られた小さな闘牛場がある。

ここはピカソの生誕地で美術館があった。

⑦ ロンダへ

 ロンダ(Ronda)は、スペイン、アンダルシア州、マラガ県の都市。

ピエホ橋は12世紀に作られた古い橋

 ヌエボ橋18世紀に作られた新橋(高さが100m)

ロンダは海抜739mの岩だらけの台地でグアディアロ川の支流のグアダレビン川により市街が2分されている。夜は寒い。その2分されている街を連絡する橋がピエホ橋並びにヌエボ橋である。この深い渓谷タホ谷に橋を架ける。

どのようにして架けたのか、これはポン・デュ・ガールの資料館で理解できた。渓谷の深いところではなんと300mほどもあるらしい。

近隣のクエバ洞窟内で、洞窟壁画が見つかっており、ロンダ周辺には新石器時代から人が定住していたとみられている。ロンダの起源は、紀元前6世紀頃に住んでいたケルト人で、彼らはこの地をアルンダ(Arunda)と呼んでいた。 

後にフェニキア人が近郊に村をつくり、そこをアシニポ(スペイン語版)と呼んだ。古代ギリシャ人に征服されたアルンダは、ルンダ(Runda)と改名された。

16世紀に修道院ができて、現在20名の修道女が住んでおられる。現在のロンダは第二次ポエニ戦争後、ローマ人が住み着いた。

 8世紀にアラブ人に占領されるが、10世紀にイスラムの支配は終わってカトリックの時代になる。

 1572年王立ロンダ騎士養成学校が設立された。17世紀、騎士強化が行われており、闘牛は馬に乗って行われていたが、一人の青年が降りて一人で牛と向かい合った。現在の闘牛の原形を作ったと言われ、現在の闘牛発祥の地である。 

当時の闘牛場は四角であったが現在は円形となっている。

ロンダにはスペインで最も古い闘牛場があり、1785年、ヌエボ橋の建設時期と同じ頃に建てられた、歴史ある建物。

ロンダでの闘牛は年2回、昨日(9/5)と本日(9/6)行われ、観客は民族衣装を身につけた人が大勢いた。開催時間になると約4000人が集まり、大変賑やかになるという。祇園祭の宵山の昼と夜の違いのようだろう。

 

 

⑧ ロンダからコルドバへ、9月6日夕方 コルドバ着

 道中岩だらけの山岳地帯を走る。風力発電の風車が数多く見られた。標高120m、人口33万人で世界遺産に登録されている。

 トレドより南へ約200㎞のコルドバは1000年前に300年間繁栄した。中世の暗黒時代と言われた時代にヨーロッパで一番栄えていたのがスペインで、中でもコルドバは300年間王朝が続いた。

 1000年前、ロンドンやパリでは雨が降ると道はぬかるみ状態になっていたが、当時のコルドバの人口は100万人で、街灯がつき、舗装された道路が何kmも続いた。人々は読み書きができ、600以上の寺院、300件近い浴場、50校近い大学、20位の図書館があり、ヨーロッパ以外からも勉強に来ていたと言われている。ドイツの尼僧の旅行記の中で、コルドバは世界の宝石と書かれていた。

コルドバの街はイスラム時代の文化を伝える建築物や街路が多く残り、イスラム教によって栄えた。ガイドさんより。

 コンクリート製のH型電柱があった。函館の角柱コンクリートを思い出す。札幌のコンクリート柱は大正12年(1923)年10月に函館水電株式会社が建柱したもので、現存する鉄筋コンクリート柱では日本最古のもので、高さ10m、底辺47㎝、上辺19.5㎝四方の角錐である。

 

カラオーラの塔、ローマ橋の門

グアダルチービール川に架かるローマ橋近くに水車があり、水車の直径は17.8m、水車幅は約1mであった。歩測にて計測。

 

9月7日 

⑨ コルドバ発グラナダ (ざくろという意味)へ

 アルハンブラ宮殿見学、一日7800人に制限されている。13haあり、一つの街として機能していた。現地ではアルカラ・アルハンナという。アルカラとは城のことをいい、場内には警察、造幣局などがある。

 アルハンブラ宮殿は1492年1月2日に落城し、無血開城にてキリスト教徒

が奪還した。

 

 アラブの女性は顔を隠している。他人から見られないようにしている。よって、窓も内部からは外が見えるが、外部からは内部が見えないようにしている。これを「嫉妬(しっと)の窓」といい、当時はステンドグラスがはめ込まれていた。

 中庭にはプールがあり、長旅で疲れた他国の王がこのプールの水を見ると気が休まったと言われている。

 噴水から流れ出る水が、ただ、水路を流れるのではなく、波紋を作り、水の流れを示している。

この水はエデンの東から流れ出たものがチグリス・ユーフラテス川・ギホン川(青ナイル川)を流れてこの宮殿に流れ着いたというイメージで作られたとか??ガイドさんの話。

 

 アルハンブラでは幾何学模様を取り入れていて、これが数学につながっている。そして、イスラム人が天文学を伝えたことにより大航海時代に入っていった。

 モザイク天井の中央はアラーの神が宿るところである。

 コロンブスがアルハンブラ宮殿にやって来た。イザベル女王の援助を受けて1492年に航海に出た。

 アラブの国では強い日差しの太陽は悪魔であった。

 宮殿内の柱のジョイントには鉛目地が施されていて、免震の意味も含まれていたそうだ。そして、柱の配列は重量感を感じさせないように配列を不規則にしている。

中央の噴水は12匹のライオンに支えられていて、1時間ごとにライオンの口から水を吹き出す仕組みに作られていた。現在は常に12匹の口から出ている。イスラム人は学問はもちろん野菜やアーモンドほか、色々なものを伝えた。茄子もそのひとつで、場内には水路橋が作られていた。

 「パラ・ソル」はスペイン語で、「パラ」は留まる、「ソル」は太陽である。

 「カルペンテ」というワインは美味しいとか。

「カスティージャ」という国名が「カステラ」になった。

多くの風呂があるということであった。一角に蒸し風呂があった。

ヘニル川に架かる橋ローマ橋。

シエラ・ネバダ山脈からの雪解け水がヘニル川を流れている。12世紀にローマ橋は架けられたが、洪水により障害物となった。1980年に修復されている。

日本にも同じような話があり、大正2年に京都で路面電車を通すために四条大橋と七条大橋が架けられた。昭和10年の洪水により四条大橋は障害物となり、周辺地域が床上浸水した為に取り壊され、新しくなった。七条大橋は当時のままである。

アルハンブラの王はシエラ・ネバダ山脈の氷をとってこさせ、シャーベットを食べていた。