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KCON WALKER

スペイン・南フランスの旅 vol4

② 9月4日 トレドに向け出発

マドリードからトレド街道を進むと雨が少なく、土地は痩せているが、焼き物に適した土地で、レンガ、タイル、石灰、セメント、家具等建築材料の製造地区となっている。

 イベリア半島の中心部にそびえるセロ・デロス・アンへレス(天使の丘)のキリスト像が車窓から見られるということであったが、残念ながら私の眼には入らなかった。

トレドは人口5万人、BC2世紀にローマ人が入ってきた。5世紀になるとゲルマン民族のゴート族が入って来て、8世紀にはアラビア人の街となる。そして、11世紀にキリスト教が支配するようになった。

 トレドの街全体が要塞のようになっている。トレドの街に入るところ、タホ川に架かるアルカンタラ橋(元はローマ時代に造られたが、その後たびたび崩壊・再建され、現在の橋は13世紀に建造された);橋長はせいぜい100m程度。ポルトガルとの国境にアルカントラという町があり、ローマ時代の橋があるようだ。

サンマルチン橋の塔には、ハプスブルグ家(スイス領内に発祥したドイツ系の貴族)の紋章(双頭の鷲)が彫刻されている。また、石材の高欄にカスガイが埋め込まれていた。

 イベリア半島で一番長いタホ川はトレドの旧市街を東から南・西へと深い渓谷を造って流れていて、自然の要塞を形作っている。11世紀にアルフォンソ6世がキリスト教の支配下におくのに7年の年月を要した。

16世紀になって神聖ローマ皇帝カルロス5世が全ヨーロッパを征服し、その拠点をトレドに置いた。17世紀まで商業・文化・芸術・科学とあらゆる面においても中心的な街だった。

 トレド中心に立つ大聖堂の高さは93mで、四角い建物は16世紀に全ヨーロッパを支配下に置いたカルロス5世の宮殿で、トレドの一番高い丘の上に建つ。 

イベリア半島で一番長い川、タホ川が街の東→南→西へと半円を描くように流れていて、ポルトガルのリスボンまで通じている。

街の北側にだけ川は流れていないので、防御ができず、3重の城壁が作られ、街全体が要塞化している。

 トレドの街は紀元前2世紀にローマ人が街を築き、その後、ゲルマン系の民族、アラビア人、さらにキリスト教の民族が支配し、支配者は変わるが、外部から攻撃されることはなかった。

 16世紀にエル・グレコが北側から描いた全景図は、現在のトレドの街と大きく変わっていない。常に内部抗争と内乱があり、トレドの街は平和な時期より戦争している間の方が長かった街である。

 アラビア人は清潔好きで風呂場の跡が多く残されている。

 飲料水はタホ川の水を汲み上げ、三重構造の水路橋が造られている。

 トレドの大聖堂は総本山である。

 魔女狩りなどに使われた異端審問所があり、拷問椅子があった。突起が多く、座ると全身が痛そう。

 大聖堂内の「大聖堂の塔」はアメリカ大陸から持ち帰った金を使用して作った。そして、柱を太くして、窓を多くし、ステンドグラスを用いた。

 

③ 9月5日 

 マドリード発セビージャ経由マラガへ

 アチャート駅発

 マドリード~セビージャ間約350㎞で5分遅れると払い戻しがある。

構内の植物園方向以外は撮影禁止。

 スペイン高速鉄道AVEの最高速度は250km/hのようだが、常に出していないようだ。マドリード~セビージャ間2時間35分

 列車は時刻になると合図もなく静かにスタートした。走行中は大変静かで、車窓にはオリーブの農園が広がっていた。

 線路側部の切り取り法面は切りっ放しでコンクリート等による保護はされていなかった。

④ セビージャ 

 1992年にバルセロナでオリンピックが開催され、その年セビージャで万国博覧会が開催されている。この開催時に空港・環状道路並びに橋梁の整備が行われた。

アメリカのカンサスシティと姉妹提携を結んでいる。

 

 アラミージョ橋

 高さ130m、長さ170m、橋台付近の落書きが美しい。スペイン全体に落書きが多い。しかし、芸術的である。

バルケータ橋、

すぐ横に遊園地がある。アーチスパン168m、アレーバンタレオの設計、

 

イザベル二世橋(トリアナ橋)1854年築

 この橋の正式名称は、イザベラ・セグンド(英語ではsecond)橋であり、セビージャの中心部とトリアナ地区を結んでいてスペインで最も古い鉄橋の一つであり、1846年にベルギーの技術者により建設されている。通称のもとになるトリアナの地名は、かつてここに3つの川が合流していたことに由来しているが、現在ではそれらの河川がどこをどう流れていたか不明であるという。パリにあるポンデザール橋(アーチ橋で創設時は鋳鉄製)を真似たという説があるが、確かに両者とも材質的には鋼材(この段階では鋳鉄または錬鉄)を用いているものの、スパン割り等の全体的イメージからは、むしろ同じパリにあるコンクリート製のアーチ型橋であるカルーセル橋に着想を得てこの橋梁をデザインしているとの説を取りたい。本橋は現在では鋼床版箱桁橋に掛け替えられているが、旧橋のアーチリブだけは縁を切って残されており、遠望するとあたかもアーチ橋のようである。箱桁の下フランジの位置とアーチリブの上縁の位置を一致させることで、この効果を演出しており、景観デザインの一つの手法を示している。

橋梁取り付けアーチ部分の石材は表面に凹凸をつけたものを積んだのではないだろうか?

 この地はコロンブスが航海を終えて帰国した場所でもある。

 すぐ近くに闘牛場があり、15000人収容でき、カルメンのショウも開催されたとか。また、13世紀の造船所跡があり、大航海時代の面影を残している。この付近には15世紀に築造されたセビージャでもっと大きな大聖堂がある。そして、アルティーボ図書館(インディアス総合古文書館)があり、インドから植民地時代に持ち帰った8000万点の書類が入っている。

10世紀に造られた城壁・アルカサルがあり、中には13世紀にゴシック様式で作られた宮殿と、14世紀にムデハルというアラブとクリスチャンの2つの文化が合体されて造られた宮殿が築造されている。

アルカサル(Real Alcázar de Sevilla)は、スペインのセビージャにあるスペイン王室の宮殿である。14世紀、カスティーリャ王ペドロ1世の命により、イスラム時代の宮殿の跡地にムデハル様式で建設が始められた。グラナダのアルハンブラ宮殿を意識した構造になっている。

15世紀から16世紀にも増築されたため、ゴシックやルネサンスなどの様式も混じっている。(ウィキペディアフリー百科事典より)

ユダヤ人街

アルカサルの街のいたる所に水道管の埋設された跡があった。また、水管橋の名残もあった。

(つづく)